★ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(高橋健二訳,新潮文庫)
★加藤晴久『憂い顔の『星の王子さま』 続出誤訳のケーススタディと翻訳者のメチエ』(書肆心水)
小学校中学年の頃は、外国の推理小説を少年少女向けに訳したシリーズを読むのが好きだった。それを卒業しようと背伸びしたのは、5年生か6年年生のときだった。
最初に買ったのは、たしかシェイクスピア『ヴェニスの商人』、ヘミングウェイ『日はまた昇る』、『創世記』だったのではないか。岩波文庫の中で、タイトルに聞き覚えのあるもの、かっこいいものを選んだのだったと思う。しかし、背伸びはいささか退屈でもあった。
そんな中で、最初に夢中になったのがヘッセの『車輪の下』であった。ハンス・ギーベンラートほど自分の分身であると思われた小説の主人公はいない。あまりに強烈な読書体験であったために、未だに再読できずにいる。しかし、私がギリシア語やラテン語の勉強を決意した際にも、大学を辞めて地元の本屋で働こうと思ったときにも(実行には移さなかったが)、ハンスのことを意識していたに違いない。中退して本屋で働いていたら、いつか溺死体で発見されていたのかもしれない。
ドイツ語で小説を読もうとしたときにも、先ず購入したのは《Unterm Rad》だった。やたらに出てくる動植物の名前をいちいち辞書で引くのが煩わしくなって、挫折はしたけれど。
今読んでいるのは《Schön ist die Jugend》(『青春は美わし』)。さらには、今でも相良守峯訳の『漂泊の魂(クヌルプ)』が大事に蔵書の中に入っているところをみると、まだヘッセを卒業しているとは言えないのかも知れない。
久し振りに『車輪の下』を手にしてドキドキしている。本当に読んでいいのだろうか。
加藤の『憂い顔』は、本当は『自分で訳す 星の王子さま』と同じく三修社から出版される予定だったが、再校を終えた段階でご破算になったという。「わたしは事情を説明されて納得した」。その事情については書かれていないが、書かなくたって分る。書肆心水というのは初めて聞く出版社だが、そういうところから出されるにはそれなりの訳があったのである。
なかなか曲のある人のようだ。しかし、渡辺一夫の弟子であるし、内藤訳と14の新訳*1をまとめて吟味するだけの勇気を持っていることだし、内容を少しのぞき見た印象としても、語学的な点に関しては信頼を置いてもよいと思う。
そこで、あくまでざっと眺めた上で言うと、やはり野崎訳を買うのが一番いいのではないか。池澤訳もいいところ行っている。仮に作家としてはファンであったとしても、倉橋由美子や三田誠広の訳は避けた方がいい。石井洋二郎なんかは、時事フランス語読解のための本を何冊も書いているのに、案外文学のニュアンスを正確に捉えてはいないらしい。
いずれにしても、フランス語検定2級レベルという『星の王子さま』で誤訳を続出させてしまう日本の出版事情は問題である。そもそも、長年親しまれてきた内藤訳こそ、加藤によれば、誤訳・謎訳・欠陥翻訳の元凶であるらしい。
なお、私が少し違和感を覚えた「飼い慣らす」という言葉は、「apprivoiser」の訳語。加藤は、そのフランスでの一般的な使われ方、サンテグジュペリによる使われ方とその変遷を吟味した上で、「飼いならす」でなくてはいけないと言う。