本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集1 モンテーニュ随想録1/モンテーニュ

 また関根秀雄訳を初めから。
 モンテーニュは引用が多い。関根訳はそれが誰の言葉かくらいは示してくれるが、どの作品のどこから採られたものだとか、その著者の生没年だとかに関しては、ほとんど何も教えてくれない。その代わり、思想的な注や解説は豊富である。
 それが便利で、少なくとももう一遍、関根訳を通読してみようと思うのである。


 『エセー』は3巻からなる。この第1分冊に収められているのは、第1巻の第1章から第23章まで。
 第3巻を読めばほとんど『エセー』を読んだことになるとは言われるが、初期の文章もけっこう面白い。関根の言うように、モンテーニュの思想の段階的変化などはあまり考える必要はなさそうに思う。
 第21章「想像の力について」で随分とあけすけに性について語っている。とてもストア的とは言えないようだ。


 第23章「習慣のこと及びみだりに現行法規をかえないこと」では、「わたしは革新が嫌いである」と保守派宣言をしている。しかし、この言葉をあまり信用しすぎてはならない。モンテーニュは決して固陋なタイプではない。
 この章の前半では、人が正しいと考えていることはほとんど習慣の力によってそう見えているに過ぎないということを、過剰なほどの例をもって示している。ある掟を守らせる立場にありながら、その根拠を調べると余りに薄弱なのに驚き、嫌悪を覚えずにはおれなかったとも告白している。「あの習慣から来る強力な偏見を抜け出ようと思う者は、何の疑いももたれずに確信されているたくさんの事柄が、ただそれらに伴う慣例の白髯と皺とに支えられているだけであることを知るであろう」。
 宗教戦争の時代にあってカトリック側に踏みとどまり続けたモンテーニュは、確かに保守派であるかも知れない。政治的に微妙な事柄において、モンテーニュの筆は煙幕を張ることがある。革新の否定の言辞にも関わらず、彼は分断を望んではいなかった。むしろ余りにリベラルであって、カトリックの側からも疑いを抱かれることがあったのである。


 余談ではあるが、先日の「振り返り」で書いたことをもう覆して、またラテン語ウェルギリウス、ドイツ語でシャーロック・ホームズを読んでいる。その方が楽しいのだから、本当に切羽詰まらない限りは、迷いながらもこの方向で行くことになるのだろう。
 殊にウェルギリウスは大切である。モンテーニュのためにもシェイクスピアのためにも、ウェルギリウスに触れているか否かは大きな違いがある。
 ホームズの古い独訳には不満もあるが(削りすぎである!)、日本語訳を読む口実として手放しがたい。英語の原典は、どうしても必要な場面でなければ、一々確認しないことにした。

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