本の覚書

本と語学のはなし

ハムレット/ウィリアム・シェイクスピア

 小田島雄志訳。

いまの世のなかは関節がはずれている。うかぬ話だ、
それを正すべくおれはこの世に生をうけたのだ!(第1幕第5場)

 三神勲訳。

この世の関節がはずれてしまった、ああ、いやなことだ、
こんな世に生まれあわせて、それを直す務めを負わされるとは!

ハムレット (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)

 福田恆存訳。

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!

 オックスフォードの原文。

The time is out of joint. O cursèd spite,
That ever I was born to set it right! (1.5)

 復讐劇ではあるが、ハムレットは自ら行動を起こさない。狂気を装いながら機会を伺っていたのか、敢えて取り逃そうとしていたのか。
 そうこうする内に誤ってポローニアスを殺し、その娘オフィーリアや息子レアティーズまでも悲劇の中へ引きずり込んでしまう。
 最終的な行動も受け身の中で決意されたことであり、最終的な決着はむしろ敵の奸計が自滅したに過ぎない。


 小田島雄志訳。

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。(第3幕第1場)

 三神勲訳。

生きる、死ぬ、それが問題だ。
どちらが貴いのだろう、残酷な
運命の矢弾をじっと忍ぶか、あるいは、
寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向かって、
闘ってその根を断ち切るか。

 福田恆存訳。

生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。

 オックスフォードの原文。

To be, or not to be, that is the question:
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune
Or to take arms against a sea of troubles
And by opposing, end them? (3.1)

 この be という動詞を存在の意味に取るならば、存在すること(=生きること)、存在しないこと(=死ぬこと)が問題であるということになる。従来そう訳されるのが普通であった。
 小田島訳では別の解釈が提示されている。ここでは(Let it be のように)そのままあらしめることと、何か行動を起こすこととが対置される。直ぐ後のパラフレーズを見れば、それが合理的であるようにも思える。
 しかしそのまた直後には、そうした対立を一足飛びに超え、自殺へと想像の根を伸ばして、死か否かと問いを発してもいる。一筋縄ではいかない。
 そもそも行動を起こして苦難に終止符を撃つこととは、死ぬことと同義なのかもしれない。
 「生きるべきか、死ぬべきか」は誤訳であるという主張をよく見かけるが、そう言い切れるほどクリアカットで論理的なセリフではないようだ。


 オックスフォードの注はパフォーマンスに現れた解釈の相違を幾つか拾ってきたものである。

The most famous phrase (and speech) in world drama, it has been performed in many different ways. Hamlet may enter with a knife, or other weapon, to suggest imminent suicide; by contrast, Adrian Lesser in Paris in 2000 simply took his pulse. Hamlet sometimes sits in the King’s throne, or addresses the whole speech to Ophelia. But a plain meditation is most usual.