本の覚書

本と語学のはなし

枕草子

 「これに薄(すすき)を入れぬ、いみじうあやし」と、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは薄こそあれ。穂先の蘇芳(すはう)に、いと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花のかたちもなく散りたるに、冬の末まで、頭(かしら)のいと白くおほどれたるも知らず、昔思ひ出で顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそあはれと思ふべけれ。(65 草の花は

 「この『草の花は』の中に薄を入れないのは、とても奇妙だ」と、人は言うようだ。秋の野を通じてのおもしろさというものは、まさに薄にこそあるのだ。穂先が蘇芳色*1で、たいへん濃いのが、朝霧に濡れてうちなびいているのは、これほどすばらしいものがほかにあろうか。しかし秋の終わりは、全く見るべき所がない。いろいろな色に乱れ咲いていた花があとかたもなく散り果てた後に、冬の末まで、頭がまっ白く乱れ広がっているのも知らないで、昔を思い出しているような顔つきで風になびいてゆらゆら立っているのは、人間にとてもよく似ている。こういうふうになぞらえる気持ちがあるので、その点が特にしみじみと気の毒に思われるのである。


 「草の花は」の中にすすきを真っ先に入れなかったのは、秋が過ぎた後の老人のようなたたずまいのせいであるらしい。ここの「あはれ」はいわゆる「もののあはれ」ではないようだ。
 なお、『枕草子』の段落に統一の番号はない。本文にあたろうと思う時は、番号よりも段落の最初の文章(ここであれば「草の花は」)から探す方がよい。

*1:暗紅色。