本の覚書

本と語学のはなし

『夏目漱石全集Ⅰ』 〔56〕


●『夏目漱石全集Ⅰ』(ちくま文庫
 『吾輩は猫である』を収める。
 猫はビールを飲んで酔っ払い、甕に落ちて溺れ死ぬ。だが、こう言って死ぬのである。

吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたい、ありがたい。(563頁)


 どうも、猫の語る物語だから猫が死ななければ終わらない、という心づもりだけではないようだ。ゲーテがウェルテルによってかろうじて回避できたものを、漱石も猫に演じさせたのかもしれない。
 『吾輩』は終盤に向かって、ますます被害妄想の度が強まり、ますます厭世の観が濃くなってくる。ここ数日に読んだところから、幾つか抜き書きをしておこう。

碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。人間の性質が碁石の運命で推知する事が出来るものとすれば、人間とは天空海闊の世界を、我からと縮めて、己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言に評してよかろう。(476-7頁)


 前回の引用の時にも、同じようなのがあった。

「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境がなくなるものかな」と主人は誰にも分らん事を云って依然として鰹節を眺めている。(482頁)


 これは寒月君が国から持ってきた鰹節が、船中で鼠にかじられたという話を聞いて、苦沙弥先生の発した言葉である。漱石留学時の船中で何かあったことを漏らしているのだろうか。
 そう言えば、苦沙弥先生の家に入った泥棒を、猫は一瞬寒月君と見間違えたことがあった。その話はそれきりになって、話の展開に一切影響を及ぼさない。探偵だの泥棒だのに対する嫌悪を吐きつつ、誰でもがそのようなものである現代を諷したものだろうか。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」(524頁)


 東洋趣味の独仙君の出番である。

「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈した。(526頁)


 これを苦沙弥先生が「それは僕が大分考えた事だ」と受けたあたりから、猫の死の直前まで、文明批評というか文明批判が延々と続く。

「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にゃ僕は生きているのはいやだ」と主人がいい出した。(531頁)


 とうとうスティーブンソンの自殺クラブまでが持ち出される。

「死ぬことは苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧が足りないから自然のままに放擲しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方について種々考究の結果、嶄新(ざんしん)な名案を呈出するに違いない。だからして世界向後の趨勢は、自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違いない」(533-4頁)


 だいぶ凄まじいことになってきた。話はまだまだ続くのだが、この辺りで止めておく。一般には愉快な方面しか知られていない書物も、実はかなり剣呑なところがあることは分かってもらえただろう。

夏目漱石全集〈1〉 (ちくま文庫)

夏目漱石全集〈1〉 (ちくま文庫)