本の覚書

本と語学のはなし

『明治大正翻訳ワンダーランド』


鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』(新潮新書
 まさにタイトルどおり。明治大正の翻訳はワンダーランドである。
 あまりに凄くて笑ってしまったのは、黒岩涙香の言葉。「余は一たび読みて胸中に記憶する処に従ひ自由に筆を執り自由に文字を駢(なら)べたればなり、稿を起してより之を終るまで一たびも原書を窺はざればなり」。


 次の引用は、森田思軒を扱った「第1章 近代の翻訳はこの「一字入魂」から出発する」より。


 翻訳とは言葉の差異を均してしまうものではなく、違っている様をそのまま見せるものだ、と思軒ははっきり言っている。もともと言葉が違っているから翻訳が発生するのだけど、「こなれていない日本語だ」とか「訳文が硬くて読みづらい」などと評されるのが怖くて、たいていは違いを感じさせない方向に力を入れてしまう。
 しかし翻訳というのは、そもそも言語と言語、文化と文化が衝突する現場だ。きれい事ばかり言ってはいられない面もある。異言語、異文化同士がぶつかって軋みをあげる、その違和感=引っかかりをきれいに取り去ってしまっていいのかという、現在もよく議論される問題は、しかしもう明治のなかばには意識されていたのだ。(20頁)


 鴻巣が明治大正期の翻訳にまつわる本を書きたいと思ってから十五、六年が経っているという。最初に調べものをした頃からは随分時間がたっていて、昔の鴻巣と現在の鴻巣が時折交錯したりする。それが煩わしい気がした。果たして今がこれを書き上げる絶好のタイミングであったのだろうか。