本の覚書

本と語学のはなし

エトランジェとユーゲント


 フランス語とドイツ語では、哲学の原典講読をしていた。ちょっと骨が折れる。試しに小説に変えてみた。
 ドイツ語は休止という選択もある。しかし、私はドイツ文学に触れると泣きたいような気分になるのだ。


《Ich aber hatte zuvor ein Krüglein Bier geholt und kaltgestellt, das setzte ich in meinem Zimmer auf den Tisch, und da in den Wohnstuben bei uns nicht geraucht werden durfte, stopfte ich mir jetzt eine Pfeife und zündete sie an.》


 感傷に浸るドイツ語としては完璧だ。私は、描かれた情景ではなく、ドイツ語の姿そのもののことを言っているのである。
 こんなことを言っていいのか分からないが、ドイツ語は常に危険なロマン主義を胚胎しているようなのだ。
 青春は美わし。ドイツ語は私の青春である。


 ところで、〈geraucht werden〉は自動詞の受動態である。馬鹿な言葉と言ってはならない(半分は当たっているかもしれないが)。
 日本語でも、「雨が降る」を受動態にして「雨に降られた」と言うことができるではないか。これを迷惑の受身とか呼ぶ人もいたような気がする。