せっかく専門を決めたことだし、今読んでいるものは一旦中断して、優先的に読むべきものに取りかかることにした。
The Annotated Sense and Sensibility
- 作者:Austen, Jane
- 発売日: 2011/05/03
- メディア: ペーパーバック
- 作者:ジェイン オースティン
- 発売日: 2007/02/01
- メディア: 文庫
このテキストは凄くて、左ページが本文、右ページが注釈に当てられている。全編を通して例外はないから、ほとんど本文と同じ量の注が書かれている訳である。
引用したのは、冒頭の段落の一節である。
In the society of his nephew and niece, and their children, the old gentleman's days were comfortably spent. (p.2)
先代は甥夫婦とその三人の娘たちに囲まれて、晩年の十年間を幸せに過ごした。(p.7)
中野訳は読みやすさが売りのようである。その秘訣がこの一文の翻訳に端的に表れている。
「甥夫婦」は原文では「甥と姪」。この場合の姪は、甥の妻であり、義理の姪のことであるのは明瞭だから、すっきり表現してみたのだろう。
「三人の娘たち」は原文では「彼らの子どもたち」。ここまでの情報では子どもの数も性別も分からないのだが、訳者は先取りしてしまった。次の段落で説明されていることだから、秘密の暴露と言うほどのことではないし、込み入った事情もあるからその読者の頭を混乱させないようにしているのだろう。
「晩年の十年間」は原文にはない。単に「老紳士の日々」と書かれているだけだが、その前の情報からして、それが姉に先立たれてから自分が死ぬまでの十年と知れるので、親切にそれを繰り返してくれているのだろう。
長い物語であるから、時折ホームズの短編を挟むのがいいかもしれない。
Oeuvres complètes de Montaigne
- メディア: ハードカバー
それまで『エセー』を読む。章ごとに異なる主題を扱うので(流れはあるかもしれないが)、どこで中断しても差し障りはない。
Ainsi, lecteur, je suis moy-mesmes la matiere de mon livre: ce n'est pas raison que tu employes ton loisir en un subject si frivole et si vain. A Dieu donq; de Montaigne, ce premier de Mars mille cinq cens quatre vingts. (p.9)
ですから読者よ、わたし自らがこの本の内容なのです。こんなつまらない主題のために大切な時間をつぶされるのはほんとうにばかげていますよ。では、さようなら。モンターニュにて、千五百八十年三月朔。(p.5)
「読者に」の結びの言葉。
カモフラージュの意図もあるようだが、この人を食ったようなアデューが私はたまらなく好きである。
【家庭菜園】
トウガラシはそろそろ終わりそうだ。もう十分収穫したので、未練はない。
エンサイ(クウシンサイ)の勢いも衰えた。来年はもう少し株を増やしてもいい。
オクラはマイペースにポツポツと実を成らせる。
実験で種をまいた内、2本だけが成長した。発芽さえしてしまえば後は楽だった。
しかし、今のところ、来年の作付け候補からは外してある。
ツルムラサキは今がピーク。
わき芽を一度摘めば終了なのか、また生えてくるものなのか分からないが、一度きりだったとしてもまあまあ楽しめる。
今年は1株のみだった。来年はもっと増やしたい。
ゴーヤーはまだ終わらない。新たに着果し続ける。
しかし、さすがに一時ほどの勢いはないようだ。これからは小ぶりの実を収穫することになるかもしれない。
モロヘイヤも元気に茂っている。
これだけは母が好きなときに収穫しているのだけれど、面倒くさがってあまり摘まない。そのために寿命を長らえているのだろうか。
秋キュウリはまだこれから。
特に8月9日に播種した方はまだ摘心もしていない。
順調に育てばこれから収穫できるもの。サツマイモ、ニンジン、ダイコン、カブ、ホウレンソウ。
サツマイモはつるが茂りすぎているようだ。大丈夫だろうか。
虫対策をせずにカブを育てるのは難しいかもしれない。あまり期待は出来ない。
ホウレンソウは空いたスペースに2度目の播種。こちらも虫対策は一切やっていない。暑さが収まって虫の活動が再開したようだ。どうなることやら。
種まきはだいたい終了。欠株があって、時期的に間に合うようであれば、ホウレンソウをまくかもしれない。面倒くさがって、もうやめるかもしれない。
タマネギの苗を購入して植えるのは、11月に入ってからだろうか。