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愛がなければ【ギリシア語・ラテン語】

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

 連続勤務の後、今日から三連休。風邪気味なのはまだ治らないが、久しぶりに古典語に触れた。
 コリントの信徒への手紙一13章2節。

καὶ ἐὰν ἔχω προφητείαν καὶ εἰδῶ τὰ μυστήρια πάντα καὶ πᾶσαν τὴν γνῶσιν καὶ ἐὰν ἔχω πᾶσαν τὴν πίστιν ὥστε ὄρη μεθιστάναι, ἀγάπην δὲ μὴ ἔχω, οὐθέν εἰμι.

 ついでにラテン語訳も。

Et si habuero prophetiam et noverim mysteria omnia et omnem scientiam, et si habuero omnem fidem, ita ut montes transferam, caritatem autem non habuero, nihil sum.

 日本語訳は、あまり正確とは言えないかもしれないけど、新共同訳。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 「預言する賜物を持ち」とある部分は、直訳すると「預言を持ち」。「完全な信仰」ではなく「すべての信仰」、「無に等しい」ではなく「無である」。


 この章の「愛の賛歌」は有名であるけれど、後に挿入された可能性も捨てきれないようだ。たとえば、「預言を持つ」という表現などはパウロ的でないと言われる。
 「山をも移すほどの信仰」というところに付けた、田川の註。

ここでパウロが意識的にマルコ11 :23(=マタイ17 :20)のイエスの言葉の伝承を頭に置いているのかどうか、不明。もしも意識しているのだとすれば、パウロはイエスの言葉の伝承に対してかなり対抗意識を持っていたことになる。なおたいていの註解者はこの表現を「山を動かす」ほどの奇跡を生ぜしめる信仰という意味に解し、パウロはここで奇跡信仰を批判しているのだ、と結論づける。しかし、「山を動かす」を単なる奇跡の意味に解していいかどうかもわからない。むしろ単に信仰の大きさを比喩的に述べているだけの表現と解する方が素直だろう。(p.354)

 おそらくこの手紙が書かれた頃には、未だ福音書は成立してない。「イエスの言葉の伝承」と書かれているのに注意しなくてはならない。
 「山をも移すほどの信仰」というのは当時よく使われる表現だったのか、イエスに特有の大胆な言葉だったのかは知らない。後者とすれば、あるいは人間イエス(ないし、その伝承)を重視しないパウロの傾向を表したものかもしれないし、13章が後の人の挿入とすれば、それを代弁したものなのかもしれない。
 もちろん、人間イエスに愛がなかったということではない。