本の覚書

本と語学のはなし

トルコ・ギリシア パウロの旅/牛山剛、写真・横山匡

 パウロの足跡を追った旅の記録である。映像作品を作るための取材であったらしいが、これで一つの作品になっている。
 「パウロの心は、パウロが伝道した所に立たなければ容易に判らないだろう」から「『使徒行伝』や『パウロ書簡』を読まれる方々に、パウロが伝道した所を、是非一度は訪ねられることをおすすめしたい」という。
 だが、この本を読めばわかるが、普通の観光地巡りではない。レンタカーを借り、タクシーをチャーターし、場合によっては地元の人ですら知らない場所を探り当てるような、玄人の旅である。ツアーもあるかもしれないが、かなり高額になるだろう。一般人にはなかなか行けるはずもないのである。
 うらやましいと思いながら読んだ。


 彼ら(協力者の藤原さんを含めて三人)を突き動かしているのは、パウロの頃の夾雑物のないヘブライズムというものへの信仰であるようだ(事はそう単純ではないはずだ)。彼らにとって、後のキリスト教はヘレニズムに敗れた偽のキリスト教である。
 第一回伝道旅行の時、リストラでパウロは石を投げられ、死んだと思われ、町の外に引きずり出された(使徒14:19-20)。藤原さんは、医者のルカがこれを記しているのだから、パウロは本当に死んだ後に蘇ったのだと考えているらしい。
 確かに聖書には死人が蘇る例は幾つかあるが、普通は甦らせる権威者がいるものである。もしこの場面でパウロが蘇ったとするなら、誰が蘇らせたのか。神であるか、パウロ自身の権威によるのか。
 パウロ原理主義というのは、これもまた一つの病ではないかと思う。