しかしその歴代誌が、ヘブライ語聖書では諸書として全巻の掉尾を飾る。あるいはこの位置が重要なのかもしれない。列王記が捕囚の悲劇を過去の罪や不信仰に結び付けて反省しようとしていたのに対し、歴代誌は(そういう傾向もないわけではないが)、むしろ捕囚から戻ったイスラエルの民がいかに自信を持って生きことができるかを問いつつ、自らの過去と和解しようと試みているのである。
こうして、ヤハウェがエレミヤの口を通して告げた言葉が成就した。〔それは〕この土地がその安息年を享受するためであった。この荒廃の期間を通じて、すなわち七十年を満たすまで、この地は安息を得たのであった。(代下36章21節)
このような歴史観の相においては、捕囚期のイスラエルの土地もまた、大いなる安息を享受して(レビ記25章参照)、帰還する人々を受け入れようとするのである。
岩波訳聖書
これで岩波訳聖書全20巻(旧約15巻、新約5巻)を読破した。豊富な注釈がこのシリーズの売りであるが、私は必ずしも熱心にそれらを読んだわけではない。もう一度じっくり目を通すのがいいんだろうなとは思うが、なかなか大変なので、再読は気が向いた時に興味のある巻だけということになりそう。
今後のこのシリーズの使い方。原典講読の際に必ず訳と注を参照する。新共同訳を読んでいて不審の箇所が出てきたら必要に応じて訳と注を参照する。他の緒論に飽き足りない時に解説を参照する。