本の覚書

本と語学のはなし

信仰義認【ギリシャ語】

εἰδότες [δὲ] ὅτι οὐ δικαιοῦται ἄνθρωπος ἐξ ἔργων νόμου ἐὰν μὴ διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ, καὶ ἡμεῖς εἰς Χριστὸν Ἰησοῦν ἐπιστεύσαμεν, ἵνα δικαιωθῶμεν ἐκ πίστεως Χριστοῦ καὶ οὐκ ἐξ ἔργων νόμου, ὅτι ἐξ ἔργων νόμου οὐ δικαιωθήσεται πᾶσα σάρξ.

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(ガラテヤの信徒への手紙2 :16)

 「イエス・キリストへの信仰」と訳されているところ、原文では「信(pistis)」という名詞に、属格で「イエス・キリスト」が添えられているだけであるが、だいたいどの日本語訳を見ても、この属格を対格的属格と見て、キリストを信じる信仰のことだとしている。例外は「キリストのまこと」と訳す前田護郎くらいだろうか。
 田川によれば、対格的属格と解釈するのが可能なのは、名詞のもとになる動詞が他動詞の場合だけである。ところが、「信じる」という動詞はギリシャ語では与格支配の(もしくは前置詞を用いる)自動詞である。したがって、名詞の「信」に続く属格が対格的な意味になることはありえず、理論的には主格の意味ととる以外になく、「キリストが信実であること」と解釈するしかないのである。*1
 では、「キリストが信実であること」とは一体どういうことだろうか。実はよく分からない。田川は私見であると断ったうえで、次のように述べている。

私見では、多分「キリストの信」はパウロ独特の省略表現であって(だから新約のほかの著者たちはそういう言い方をしない、ということなのだろう)、「神がキリストを通じて示した信実」といったことを一言で「キリストの信」と標語的に言っているのであろうか。(中略)
つまり、パウロは旧約の「律法の業績による義」に対して、「キリストの信」を対置させている。その中身は、もう少し詳しく言えば、人間がどんなに頑張って律法を実践しても、みずからの実力で「義人」になることは不可能である。その限りでは、すべての人間が罪人であって、ほろびに定められている。それにもかかわらず、神の方からキリストを「罪の贖い」として遣わしてくれて、それによって人間を救おうとしてくれた。これが「神の信実」である……。(訳と註3, p.171-172)

 そうだとすると、人は律法の業によって義とされるのではなく、一般に言われているように信仰によって義とされるのでもなく、神の側からの恩寵によってのみ義とされるのだということになりそうだ。


 「私たちもキリスト・イエスを信じました」の「も」は、ふつう15節と関連させて、「異邦人だけでなく、ユダヤ人であるわれわれも」という意味で理解されているようだ。
 しかし、田川はパウロの論理では話が逆だろうし、第一「も」は直前の表現と関連させるものだと言う。

つまり「イエス・キリストの信によって」(神がイエス・キリストを通じて我々に対して信実を示して下さった)に対応させて、それなら我々もそれに対応して、その「信」に対して「信」をもって対応し、神のキリストによるその救済意思を信頼しようではないか、と言っているのである。(訳と註3, p.174-175)


 おまけにもう一つ引用。

ζῶ δὲ οὐκέτι ἐγώ, ζῇ δὲ ἐν ἐμοὶ Χριστός· ὃ δὲ νῦν ζῶ ἐν σαπκί, ἐν πίστει ζῶ τῇ τοῦ υἱοῦ τοῦ θεοῦ τοῦ ἀγαπήσαντός με καὶ παραδόντος ἑαυτὸν ὑπὲρ ἐμοῦ.

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤの信徒への手紙2 :20)

 ここでも当然、田川は、キリストの信実によって、死んでいるも同然の我が身(肉において生きているところの私)が生きているのだ、と考える。
 それはともかく、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」というのは、宗教体験の目指すところではあるだろう。


新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

*1:「キリストに対する信仰」と言いたければ、名詞の後に動詞の場合と同様の前置詞をつけるのがふつうである。