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本の覚書

本と語学のはなし

方丈記/市古貞次校注

方丈記 (岩波文庫)

方丈記 (岩波文庫)

 短いのですぐに読み終わるが、必ずしも簡単というわけではない。

その家のありさま、世の常にも似ず、広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。(p.28)

 『方丈記』というタイトルは、晩年に住んだ一丈(約三メートル)四方の簡素な家(簡単に解体して、車二両に積んで移動もできる)にちなんでいるが、引用したのはその作りついての記述。
 先ず「地を占めて作らず」。文字通りに読むと、定住を目指したものではないから、その場所を自分の領地として確保したわけではないという意味のように見える。岩波文庫にはここに注釈がないから、一般に想定される読みを支持しているようでもある。しかし、小学館の「新編日本古典文学全集」の訳を見ると、「地ごしらえがしてない」とある。「占む」を整地し地固めをすることと捉えているようだ(辞書には載っていないが)。どちらかというと「締む」という表記のニュアンスだろうか。
 次に「土居」。辞書ではこれを土塀のこととして、この方丈の家の五年後を描写した「仮の庵もやゝふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居に苔むせり」という文章を例に挙げている。ここの「土居」と前の「土居」が別のものだとは思われない。ベネッセの辞書も岩波の辞書も、鴨長明が方丈の周りに簡単な土塀を築いたと解釈しているようだ。ところが岩波文庫では、「材木の土台」と注されている。小学館の訳はすばらしく説明的で、「いきなり地べたに四本の丸太を横たえてこれを正方形に組み、その四隅の上に柱を立てる。いわゆる土居だ」。これは断然専門家の言う通りなのだろう。
 そんなわけで、簡単に読み過ごしてしまうと、方丈のイメージもだいぶ違ったものになってしまう恐れがあるので要注意だ。


 内容について言えば、岩波文庫の解説が的確だと思う。

だが、隠遁生活を通して、自由を得、自己をとりもどしたよろこびはよく描けているが、そういう問題を追及したものとしては、なお底が浅く、視野も広いとは言えない。音楽と和歌の才に恵まれ、これを自負し、家名、家職に固執する、片意地な偏狭な男が、自己の体験を、隠者の悟りを開いたかの如き自分を通して語っているのであって、そういうことはかれ自身多少は意識していたようにも思われるが、よしそれが自覚されても、自身でもどうにもならないものであったろう。読者は、生半可な悟りに対するもどかしさを感ぜざるを得ないが、そこにまた長明という人間の表白が認められるのである。長明は結局悟り切れず、安心立命の境界に至り得ない男であって、西行とはかなりの隔たりがあるように思われてならない。したがってこの作品に思想的な深みを求めるのは困難である。(p.135-136)

 長明は美文への執着を隠そうともしないが、そのような傾向に意識的に抗して「言語ごんご・文章はいかにもあれ、思ふままのことわり顆々つぶつぶと書きたらんは、後来こうらいにも、文章はわろしと思ふとも、理だに聞えたらば、道のためには大切なり」(『正法眼蔵随聞記』)と言った道元とも、その姿勢はまるで違う。
 どうしても我々はそこに真の境涯を見出すことはできないのである。

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