本の覚書

本と語学のはなし

マタイ6章から再開

 しばらく中断していたが、今日から再び新約の原典に取り組む。
 最終的には1日2章くらいのペースにしたいとは思うけど、今日のところはわずかに1節のみ。
 マタイによる福音書6章1節のギリシア語原文と参照する翻訳を書き抜いておく。

ギリシア語原文

Προσέχετε [δὲ] τὴν δικαιοσύνην ὑμῶν μὴ ποιεῖν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων πρὸς τὸ θεαθῆναι αὐτοῖς· εἰ δὲ μή γε, μισθὸν οὐκ ἔχετε παρὰ τῷ πατρὶ ὑμῶν τῷ ἐν τοῖς οὐρανοῖς.

 山上の説教の続き。この一節は、施し、祈り、断食をテーマとする一連の説教の導入部分である。
 ギリシア哲学などではふつう「正義」と訳されるδικαιοσύνηをどう扱うかがポイントのようだ。

フランシスコ会

人々の前で自分の善い行いを見せびらかさないように気をつけなさい。さもないと、天におられるあなたがたの父のもとで、報いを受けることはできない。

 最近はフランシスコ会訳に疑いを持つこともあるが、一応日本語訳は先ずこれを参照する。
 ディカイオシュネーは「善い行い」となっている。

新共同訳

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 「善行」となっている。

口語訳

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

 「義」である。

岩波聖書翻訳委員会訳

[また、]人々に見せようとして、あなたたちの義をその前でなさぬように用心せよ。さもなければ、あなたたちは天におられるあなたたちの父から報いを受けることはない。

 「義」である。

田川建三

自分の義を人々の前で見られるように行うことのないように心せよ。さもないと、天にまします汝らの父から報酬を受けることができない。

 やや古めかしい文体になっているのは、マタイ福音書が教会の信者に対する説教を目指したものであり、そのためそういう部分は、著者個人の適当な作文と言うより、教会の中で磨き上げられた丁寧な、時に詩的と言えるまでの文章となっているので、訳も少し格好をつけたということだ。
 田川はディカイオシュネーを「義」とした上で、注も付けている。この語の新共同訳批判はフランシスコ会訳にも当てはまるだろう。

新共同訳は「善行」。この語の訳については、新共同訳は全体としてひどすぎる。下手に解説的に言い換えようとして(「義」などという単語は読者には理解できないだろう、という読者をまことにみくびった態度から生じる余計なお世話)、いちいちひどくくずれた訳語を導入なさる。……「義」は旧約、ユダヤ教の伝統、及びそれを継承しようとする新約の著者の一部(マタイ、パウロなど)にとっては最も基本概念なのだから、このようにその都度ちゃちに言い換えてはいけない。それに「義」と「善行」ではだいぶ話が違う。いちいち全部指摘するのも面倒だから、たいていは無視しておいたが、時々は指摘しておかないと、それでいいかと思われても困るので。

ラテン語ヴルガタ訳

Adtendite ne iustitiam vestram faciatis coram hominibus ut videamini ab eis
alioquin mercedem non habebitis apud Patrem vestrum qui in caelis est

 「iustitia」は英語の「justice」である。

イタリア語CEI訳

State attenti a non praticare la vostra giustizia davanti agli uomini per essere ammirati da loro, altrimenti non c’è ricompensa per voi presso il Padre vostro che è nei cieli.

 「giustizia」は英語の「justice」である。

英語欽定訳

Take heed that ye do not your alms before men, to be seen of them : otherwise ye have no reward of your Father which is in heaven.

 「alms」は「施し」のことだから、「善行」より更に意訳をしたもののように見えるけど、写本の中にはδικαιοσύνηνの代わりにἐλεημοσύνηνと書いているものもあるようだ。それならば2節に出てくる「施し」と同じ語であり、1節は単に2節から4節までの導入ということになる。
 つまり欽定訳が「施し」としているのは、意訳の問題ではなく、本文批判の問題である。

英語NABRE訳

[But] take care not to perform righteous deeds in order that people may see them; otherwise, you will have no recompense from your heavenly Father.

 ここでも「義」という抽象的概念ではなく、「righteous deeds」という具体的な行為が問題となっている。ひょっとしたらこれはカトリック的な好みなのかもしれない。

フランス語共同訳

Gardez-vous de pratiquer votre religion devant les hommes pour attirer leurs regards ; sinon, pas de récompence pour vous auprès de votre Père qui est aux cieux.

 この「religion」とは何だろうか。辞書を引くと、「宗教」の他に「信仰」や「神聖な義務」の訳語も見える。
 エルサレム聖書では「Gardez-vous de pratiquer votre justice devant les hommes」と文字通り訳しているが、注釈では「神の前で人を義とする善行を行うことである」と書いている。しかも、ユダヤ人的にはその主たる内容は「施し」であると。

ドイツ語ルター訳

Habt Acht auf eure Frömmigkeit, dass ihr die nicht übt vor den Leuten, um von ihnen gesehen zu werden; ihr habt sonst keinen Lohn bei eurem Vater im Himmel.

 「Frömmigkeit」は「敬虔」や「信心深いこと」を指す。フランス語共同訳の「religion」はこの訳の影響を受けたものだろうか。

共観表

 この箇所に並行記事はないので、共観表は佐藤研のもアーラントのも参照しない。