本の覚書

本と語学のはなし

良寛 人と思想149/山崎昇


 田舎の郷土史家とはこんなものだろうか。知識や語彙は立派な大人かもしれないが、ほとんど小学生の作文である。至るところ、文法、言葉の運用、文と文の接続が不適切であったり、間違っていたりする。それはよい(よくはないが)。せっかくふんだんに持っている知識を、整理し、再構成し、分かりやすく読者に提示するということが全くできていない。ほとんど行き当たりばったりではないかと思うほどに、行きつ戻りつ、はたまた同じことを繰り返し、良寛の生涯がどのようなものであったかどうにも捕捉しがたいのだ。


 とにかく不親切極まりない。和歌、漢詩候文の手紙の引用はたくさんあるが、ほとんど解釈はしてくれない。漢詩は読み下しすら付さないことも多々ある。それだけの学識がないということだとしたら、初めから執筆を断らなければいけない。
 宗教面の解説はほぼない。この方面も著者の任ではないのだろう。しかしそれを無視しては、良寛といったところで、真心だの清貧だのに還元され、陳腐な道徳になり下がっていくばかりではないだろうか。
 その代り、ローカルな情報は不必要なほどに詰め込まれている。そのために却って本質が見失われるのではないかと恐れるが、郷土史家が郷土の傑人にこだわるほとんど唯一の理由がそれであるとしたら、仕方のないことかも知れない。ただ、全国の人が読むであろう本なのに、役に立たない地図が一枚付されているだけで、他所の人にはどこにあるのか見当もつかない地名が振り回される。こんなのは迷惑な話だ。


 ちなみに、三尊像のような写真は、出雲崎良寛の生地)で買った良寛像の両脇に、台北で買った観音像、パリで買ったエッフェル塔を配してみただけで、宗教的な意味は何もない。