本の覚書

本と語学のはなし

峠(中)/司馬遼太郎


 史実ではないようだが、福沢諭吉と議論する場面がある。

 継之助は、儒教の徒である。儒教は王を輔けて人民の幸福をはかるという政治思想であり、あくまでも人民は上から撫育すべきものという、あたまがある。
 それが継之助の「人民」だが、福沢の「人民」は人民そのものの富と教養を増大し、その力を大きくすることによって結果として国家や社会が栄えるという、そういう「人民」であろう。福沢はルソーの自由の権利思想をその原典においては読んだことがなかったにちがいないが、その本質はみごとにつかみ、自分の血肉にしていた。いずれにせよ、その点がちがうだけであろう。
 他はおなじといっていい。(p.425)


 果たして「同じ」などといっていいレベルのものだろうか。
 小さな器の中ではそれ相応のものしか出来上がらないというのは、継之助も考えていたところであるようだが、彼自身が小さな藩から一寸たりとも離れて思考しようとしなかったのだとすれば、彼もまたその小藩に見合う程度の人物でしかなかったのではないか。
 小さな藩をスイスのごとき独立国にする、などというのは継之助が本当に考えていたことか、司馬が言い出したことかは知らないけれど、ひどく的外れなことに思えて仕方がない。


 継之助そのものよりも、幕末から明治への混乱を東国側から描いているという点にのみ注目している。簡潔な鷗外の『西周伝』の理解にも大いに役立つ。例えば大阪から徳川慶喜が逃げた時のこと、『峠』にはこんなことが書いてある。

 あけ方近くなって、この部屋のふすまが突如ひらき、福地〔源一郎〕らは目をさました。そこにフランス陸軍式軍服に身をかためた幕府歩兵の士官である松平太郎が立っていた。
 「なにをのんきに居眠りなさっている。もはや、これが」
 と、親指を立てた。慶喜のことである。
 「大坂をお立ちのき遊ばしたぞ」(p.337-338)


 似たような場面、『西周伝』では、

二人〔周と佐太郎〕御用部屋に入りて、将に復命する所あらんとす。人々面色土の如く、所々に偶語して顧みず。周乃ち諴太郎に何の故ぞと問ふ。諴太郎拇(おやゆび)を竪てゝ曰く、此物(これが)夜遁(にげ)ると。周大に驚く。(p.89)


峠(中) (新潮文庫)

峠(中) (新潮文庫)