本の覚書

本と語学のはなし

うひ山ぶみ/本居宣長


 『古事記伝』を書き終えた後、ようやく暇を得て初学者向けに古学の心得を書きつけたのが『うひ山ぶみ』。タイトルは「初めての山歩き」といった意味である。前半が総論、後半がそれに注を付ける形で各論となっており、なかなかよくできた体系的な入門書だ。
 大石良夫の注釈もよい。宣長の著作の中から同趣旨の文章をたくさん引用するので、宣長の基本的な思考の筋はこれ一冊でかなり見えてくるのではないか。宣長が省略した物語論についても、『玉の小櫛』から「もののあはれ」に言及した箇所を引いてくれている。
 古学は確かに私なんかにはついて行けないイデオロギーが核心にある。『古事記』あたりに見られるまっさらな心、仏教や儒教によって汚される以前の、ことさら言上げする必要がないからさかしらな論理を持たなかった昔の大和魂というものに、日本人としてのアイデンティティーのすべてを見出そうとするかのような思想は、どうしたって大戦以降の我々には素直には受け入れがたいのである。宣長当時の学問状況を見れば、古代日本を朱子学の解釈から解き放つ必要は当然あったであろうが、現在の我々はそれを古学からも自由にしてあげなくてはならないと思うのである。
 しかし、宣長自身は案外バランス感覚の良い人である。ひたすら古の日本だけを愛しているようではあるけど、熱心な浄土宗の家を継いだ彼はきちんと法要もしているし、『万葉集』の歌がすべて何の構えもない素直な歌であるとばかりは言えないとしているし、和歌の実作(これはかなり重要視されている)においてはむしろ後世風から始めてもよいとも言っている。イデオロギーやドグマに縛られず、良いものは取り悪いものは捨てることのできる人であったのだ。
 最後に学問について有益な言葉を引用しておく。

 そもそも、道統伝来のすぢを重くいみしき事にするは、もと仏家のならひよりうつりて、宋儒の流なども然也。仏家には、諸宗おのおの、わが宗のよよの祖師の説をば、よきあしきをえらぶことなく、あしきことあるをもおしてよしと定めて尊信し、それにたがへる他の説をば、よくても用ひざるならひなるが、近世の神学者歌人などのならひも、全くこれより出でたるもの也。
 さるは、神学者歌人のみにもあらず。中昔よりこなた、もろもろの芸道なども同じ事にて、いと愚かなる世のならはしなり。たとひいかほど伝来はよくても、その教へよろしからず、そのわざつたなくては、用ひがたし。其中に諸芸などは、そのわざによりては伝来を重んずべきよしもあれども、学問や歌などはさらにそれによることにあらず。古の集共を見ても知るべし。その作者の家すぢ伝来にはさらにかかはることなく、誰にもあれ、ひろくよき歌をとれり。されば、定家卿の教へにも「和歌に師匠なし」とのたまへるにあらずや。(p.236)


 彼の師、賀茂真淵も師の誤りを指摘するのに遠慮はしてならないと言っていた。ただし、道元にはまた別の言葉があって、これもまた有益な学道の道取、理想的な子弟の交わりである。ついでだから『正法眼蔵随聞記』から書き抜いておく。「学道の用心と云ふは、我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全くそれに随て、本の我見をすてゝあらためゆくべし。此の心が学道第一の故実なり」。