本の覚書

本と語学のはなし

『万延元年のフットボール』

大江健三郎万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫
 初めての大江健三郎。昔から生きている人の本を読むのが苦手だったのだ。
 私の育った環境の中では出会いにくい作家でもあった。私の家ではずっと産経新聞をとっているが、それはこの地域でも少数派であるとしても、メンタリティーにおいては大部分がその潜在的読者であるような地域である。この新聞では、今も原発や領土に関する言動によってしばしば大江を非難している。
 私にはかつて読書家であった兄がいるが、彼の偏愛する作家は太宰治ならびに、と言うより、それをはるかに超えて三島由紀夫であった。彼の素行のせいでこの二人の作家は我が家で禁忌となり、読書そのものが危険視されることになったために、私の読書体験からもこの二人は慎重に(唯一『金閣寺』体験*1を除き)排除されている。だがそれは決して三島とは逆のベクトルへ進むことを意味せず、そのような個々の嗜好を脱して普遍的な真理への傾斜を促すことになったのである。
 大江がノーベル賞を受賞したとき、私は既に文学的不毛の地を彷徨っており、彼への関心を何ほども抱くことはなかった。


 大江の本は現代日本文学を集中して読んだときに買っていたのだが(この本の他、『新しい人よ眼ざめよ』と『私という小説家の作り方』)、三田誠広の『ワセダ大学小説教室 書く前に読もう超明解文学史』で日本文学史の東の横綱と位置付けられていたせいもあり*2、面倒臭そうで敬遠したままになっていた。


 出だしは奇妙に難解な文章が続き、この文体を長編を通じて維持できるならすごいことだと思ったけど、詩的晦渋は第一章のみで、後は読みやすいとは言えないまでも理解はできる文体に切り替わっていた。
 内容はどうだろう。三田の言う私的体験と神話的構造の融合に過大な期待を寄せていたせいだろうか、少し肩透かしを喰った感じ。単に私の文学的不感症を露呈してしまうだけかもしれないが、今後も読み続けたい作家のリストには入らない。