本の覚書

本と語学のはなし

「青春は美わし」「アエネーイス」「イーリアス」Festina lente !

Im Walde schrie der Häher und reiften die Heidelbeeren, im Garten blühten Rosen und feurige Kapuziner, ich nahm teil daran, fand die Welt prächtig und wunderte mich, wie es sein würde, wenn auch ich einmal ein richtiger Mann und alt und gescheit wäre. (p.47)

森の中ではカケスが叫び、コケモモが熟し、庭ではバラと燃えるようなキンレンカが咲いた。私はそれらの仲間入りをし、この世界をきらびやかだと思った。そして、いつか自分もほんとのおとなになり、年をとり賢くなったら、どうなることだろうと、不思議な気持ちになった。(p.39)


 やたらに子音の多いドイツ語には、深い森の中から届く老人のしわがれた声のような響きがある。そんなようなことを、昔、小塩節の文章の中に見つけことがある。その老人の低く枯れた声に、私も時々耳を澄ませたくなる。

at puer Ascanius mediis in vallibus acri
gaudet equo iamque hos cursu, iam praeterit illos,
spumantemque dari pecora inter inertia votis
optat aprum aut fulvum descendere monte leonem. (4.156-159)

…しかし幼いアスカーニウス、
谷の真中を荒馬で、喜ばしげに走せまわり
あるいはこの群れ、またはかの、けものの群れを追い越しつ、
ただおとなしい家畜より、泡を飛ばして襲い来る、
猪をこそみずからは、神に犠牲に供せむと、
願い、あるいは淡褐の、牡のライオン山を出て、
走せて下るを期待する。(p.218-9)


 たまに『アエネーイス』は『イーリアス』よりも読みにくいと感じる。私はそれをウェルギリウスのせいにしたり、ラテン語のせいにしたりするのが好きだ。かつて軽佻浮薄の代名詞のようにみなしていたフランス語を今はこよなく愛するように、いつかモンテーニュとともにウェルギリウスにため息をつくことがあろうかと、淡い期待を抱きつつ。

... καὶ γάρ ῥα Κλυταιμνήστρης προβέβουλα
κουριδίης ἀλόχου, ἐπεὶ οὔ ἑθέν ἐστι χερείων,
οὐ δέμας οὐδὲ φυήν, οὔτ’ ἂρ φρένας οὔτέ τι ἔργα. (1.113-115)

わしには正妻クリュタイムネストレ(クリュタイムネストラ)よりもあの娘〔クリュセイス〕の方がよい。姿かたちといい、心ばえや手の技といい、娘は少しも妻には劣らぬのだ。(p.16)


 ギリシア語を嫌いになった記憶がない。苦しいことはあったけれど、それは理解したいのに理解できない苦しみであって、中途で放棄することは考えられなかった。大学に入学して直ぐに絶望したときも、ギリシア語が読めぬ内は辞められぬと思い直して踏ん張った。なぜギリシア語を読むのがそれほど楽しいのか。それにも関わらず、なぜ私はギリシア語を捨てようとしているのか。