本の覚書

本と語学のはなし

Bonjour tristesse


 誤訳らしきものを見つけても最近は感動しなくなったので一々書きつけてこなかったが、今日は他に書くこともないし、『悲しみよこんにちは』から疑わしい部分を挙げておく。

 父は私を見つめ、すぐに目をそらした。私は混乱していた。私は、無頓着さが、私たちの生活にインスピレーションを与える、唯一の感情だと気がついた。そして、弁解するための議論をしないことだった。(60頁)


 訳文だけ見ると(多少意味が分かりにくいのは気にしないことにして)、父の無頓着さに対して、私は自己弁護の議論をしても無駄であると悟ったというふうに取れる。しかし、「私は、無頓着さが」以下は、原文では一続きの文章になっている。見てみよう。

Je me rendais compte que l’insouciance est le seul sentiment qui puisse inspirer notre vie et ne pas disposer d’arguments pour se défendre. (p.63)


 朝吹が独立した文章で表現した「そして、弁解するための議論をしないことだった」は不定形である。そう訳したくなる気持ちは分かるが、文法的には支持しがたい。あくまで関係代名詞で導かれる節の中で、puisse という助動詞につながるから不定形なんだと理解するのが筋である。つまり先行詞は le seul sentiment(唯一の感情)であり、それが関係代名詞節の中での主語になるはずなのだ。
 そう理解した上で訳文を作ると、「無頓着さこそ、私たちの生活を規定し(「インスピレーションを与える」はピントがずれていると思う)、自己弁護のための根拠を必要としない唯一の感情だと、私は気がついた」というふうになるだろう。これでも分かりにくいかもしれないが、要は、その感情(無頓着)がそうあるために何らの理由をも必要としない、それが私たちの生活を支配する感情のデフォルトである、というようなことを言っているのではないだろうか。


 さて、今日の私もまた無頓着さの中に生きていて、A社よりT社の方が合格しやすいし仕事も貰いやすいのではないかと思いながら、どちらに先にコンタクトを取るか決着をつけずにいる。履歴書や職務経歴書にもひと工夫必要だが、なんとなく手をつけずにいる。