モンテーニュ『エセー』第2巻第10章「書物について」を読了する。
最近、原典講読のペースが少し落ちてきている。仕方のないことかもしれないが、ここにこそ一番力を入れなくてはいけない。日課に若干の修正が必要だろう。
Quant à mon autre leçon, qui mesle un peu plus de fruit au plaisir, par où j'apprens à renger mes humeurs et mes conditions, les livres qui m'y servent, c'est Plutarque, dépuis qu'il est François, et Seneque. (p.413)
そして、もうひとつの読書、つまりは、楽しみだけでなくて、少しばかりたくさんの効用も混じっていて、自分の思考のあり方をどう整理すればいいのか教えてくれて、役に立つ書物というならば、それはプルタルコス――彼がフランス人になってからの話だが――とセネカにとどめをさす。(p.173)
プルタルコスがフランス人になったというのは、アミヨによって『対比列伝』が、続いて『モラリア』が翻訳され、膨大な全作品をフランス語で読めるようになった、ということである。
プルタルコスとセネカがお気に入りだったのは、彼らがあまり思弁的ではなく、煩雑な定義や分類などに拘泥したりもせず、実際的な判断力を鍛えてくれるからであっただろう。そして、さらに重要なのは、『モラリア』や『倫理書簡集』の一つひとつが割と短いこと。モンテーニュの性格に合っていたのである。
ちょっと長いけれど、二人を比較した文章を書き抜いておく。
プルタルコスとセネカは、有益にして、真実味のある考え方を開陳してくれるけれど、その大部分において、両者は一致している。それだけではなくて、このご両人、たまたまほぼ同時代に生まれ、ふたりとも、ローマ皇帝の師傅をつとめている。そしてまた、ふたりとも外国の出身でありながら、富と権力を獲得したのだ。彼らの教えこそは、哲学のエッセンスであって、それが簡潔にして、適切なかたちで提示されている。ただし、プルタルコスのほうが、より均一で、ゆるぎがない。セネカのほうは、移り気というか、多彩なのである。それに、弱さや、おそれや、よこしまな欲望に対して徳を武装させようとして、心をくだくあまり、身を固くして、しゃきっとしすぎている。プルタルコスの場合は、悪徳の力などたかが知れていると考えて、やたらと足を速めたり、身がまえたりすることをいさぎよしとしないといった風情が感じられる。プルタルコスは、プラトン的なというか、穏健にして、市民社会に適合した考え方を持っている。いっぽうのセネカは、一般的な慣習からはかけ離れていて、ストア的にしてエピクロス的な思考を展開するけれど、わたしからすると、個人の生き方には、より適した、堅固な考え方だと思われる。(p.173-4)
市民的と個人的との融合は、モンテーニュにおいてきわめて鮮烈に行われた。「プルタルコスはわれわれを導くのであり、セネカはわれわれを駆り立てるのである」(p.174)。どちらも必要な存在であったのだろう。