本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】私たちは祖国を逃げだすのだ【牧歌】

Tityre, tu patulae recubans sub tegmine fagi
silvestrem tenui musam meditaris avena :
nos patriae fines et dulcia linquimus arva ;
nos patriam fugimus : tu, Tityre, lentus in umbra
formosam resonare doces Amaryllida silvas. (Ecloga 1.1-5)

You, Tityrus, lie under your spreading beech’s covert, wooing the woodland Muse on slender reed, but we are leaving our country’s bounds and sweet fields. We are outcasts from our country ; you, Tityrus, at ease beneath the shade, teach the woods to re-echo “fair Amaryllis.”

 ドイツ語はニーチェをやめ、ビューヒナーに取り組むことに一応決定した。ニーチェの思想に同意しかねるものがあるのかも知れない。私の頭がそもそも思想に向かないのかもしれない。膨大な著作に恐れをなして、寡作のビューヒナーに逃亡しただけかも知れない。
 それならば、ほぼ同じ理由によって、ラテン語におけるアウグスティヌスの地位も考え直してみなくてはならない。私の脳髄が哲学向きでないならば、そして遺された多量の文章が私を絶望の淵に陥れるのであれば、僅かな作品のみで後世に不滅の名を刻んだ詩人を求めるべきではないか。


 詩人は直ぐに見つかる。もともと私は『アエネーイス』を読んでいたから、ロエーブの古い2巻本を持っている。
 1巻には『牧歌』と『農耕詩』と『アエネーイス』1-6、2巻には『アエネーイス』7-12と『補遺』が入っている。これがウェルギリウスの全著作である。しかも、『補遺』はほとんど偽作だと言われている。
 あくまで試しの段階である。結論は急がない。


 引用は『牧歌』第1歌の冒頭である。
 テオクリトスにならった『牧歌』にしろ、ヘシオドスにならった『農耕詩』にしろ、ホメロスにならった『アエネーイス』にしろ、全てヘクサメトロス(六歩格)という英雄叙事詩の韻律で書かれている。私には最も馴染みのある形式なので、読みやすい。
 私が持っているのは古いロエーブ叢書である。訳も古めかしいかも知れない。日本語訳を持っていないので、『ラテン文学を学ぶ人のために』(世界思想社)の中の小川正広の訳を紹介しておく(この人は京大の西洋古典叢書で『牧歌/農耕詩』を訳している人だ)。


ティーテュルスよ、君は枝を広げた橅のおおいの下に横たわって、
森の歌をか細い葦笛で繰り返し奏でている。
だが、私らは、祖国の土地と親しい畑を去っていく。
私たちは祖国を逃げだすのだ。ティーテュルスよ、君は木陰でのんびりと
美しいアマリュッリスの名を響かせるようにと森に教えている。(p.105)

 英訳との一番の違いは2行目のところ。
 英訳では「森のミューズに言い寄る」となっているが、小川訳は「森の歌を繰り返し奏でる」としている。ムーサは芸術を司る女神であるが、普通名詞として詩歌のことでもあり得る。meditariはmeditateの語源となる言葉であるが、思念することであると同時に練習することでもあり得る。
 詩の言葉だから、どちらかが正しいというものではない。実際の行為としては呑気に葦笛を吹いていただけであろうが、詩の言葉には両義性があり、詩には見立てという行為がある。


 3行目と4行目は同じnos(我々は)という1人称複数主格の人称代名詞で始まる。動詞の活用形で主語の人称と数は分かるから、ラテン語では主格の人称代名詞を省くのが普通である。したがって、これは強調である。
 内容もほとんど同じことを言っている。繰り返して悲運への嘆きを強調するのである。
 小川正広の解説によれば、こういうことだ。

牧人たちの恋と歌の平和な世界は、ウェルギリウスの牧歌では「アルカディア」という特別の名前を与えられている。しかし、この穏やかなアルカディアにも大きな出来事が起こった。実は、そこにも凶暴な権力をもったローマが侵入し、平和を破壊しようとしているのである。対共和派の戦争に勝利したオクターウィアーヌス〔後の皇帝アウグストゥス〕は、戦った兵士たちの労に報いるために、イタリアの農民から土地を奪い、それらを彼らに分配することに決めた。(p.105)

 ウェルギリウスの牧歌は、このジャンルにありがちな現実逃避の性格を持つものではなく、むしろ「同時代の社会的苦難を表現するためのメディアム」となったのだという。


 ウェルギリウスは後にマエケナスメセナの語源となった人)の援助を受け、内乱に終止符を打ち平和をもたらしたオクタヴィアヌスにも何ほどかの希望を見出したようである。
 だが、それはやはり留保付きのものだったのではないのか。ウェルギリウスを読み続けるとしたら、その点を常に考察しなくてはならないだろう。


 なお、詩の方面でモンテーニュが一番愛したのはウェルギリウスであったように思われる。

だがもう一度書物の話を続けると、詩の方ではヴェルギリウスルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスが、ずばぬけて最前列を占めているように、いつもわたしには思われた。特にヴェルギリウスがその『田園詩』において群を抜いている。これこそ最も完全な作品だと思う。これにくらべるとあの『アエネイス』の中には、もし作者にその暇があったならばおそらく幾回かの推敲を加えたであろうと思われるふしぶしがあるのを、人は容易にみとめることが出来る。だから『アエネイス』の中では、その第五巻が最も完全なものに思われる。(『随想録』2.10「書物について」、関根秀雄訳)

 ここで『田園詩』と訳されているのは、原文を見ると『牧歌』ではなく、『農耕詩』の方である。原二郎も宮下志朗も『農耕詩』としているから間違いなかろう。
 その昔、越智文雄がウェルギリウスの『牧歌』を『田園詩』と訳したこともあるので、ちょっと紛らわしい。
 ちなみにモンテーニュがものを考えるための本としてこよなく愛したのは、プルタルコスセネカである。