『ヴォイツェク』は草稿しか残されておらず、しかもそれが数種類ある。全集ではその全貌を知ることが出来るが、岩波文庫版には通読用台本のみが収められている。これはベルゲマン版に従って再構成されたものである。鳥影社版全集の台本は場面の配置も異なるし、台詞も多少異なっている。
なかなか難しいテキスト問題を抱えた作品であるが、傑作として偏愛する人も多いらしい。
ポーシャ問題
『ダントンの死』第1幕第2場。
シモン お前そっぽを向くのかい? なあ、お許し召され、ポーシャ殿。殴ったのは俺の手のせいじゃない、腕のせいでもなない、みんな狂気のなせる業だ。
ハムレットの狂気は哀れなハムレット自身の敵だ。
あれはハムレットの仕業ではない、ハムレットには覚えのないことだ。
〔中略〕
シモン あの娘の所へ行こう! 貞節の誉れ高き女房殿。
酔っ払ったプロンプターのシモンの女房の名は明示されていない。単に「女房」である。シモンが彼女にポーシャと呼びかけるのは、それが彼女の本来の名前だからなのか、戯れに歴史上の、あるいは文学作品中の女性に擬したのか、はっきりとは分からない。
岩波文庫の注釈にはこう書いてある。
ポーシャ、すなわちポルキアはカトーの娘でブルートゥスの妻。夫の敗北に殉じて自害した気丈な妻。その名が同名のシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物ポーシャを連想させ、すぐ後の『ハムレット』の引用〔第5幕第2場からの不正確な引用〕に繋がる。
一方、鳥影社版全集の注釈はこうである。
シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』4幕3場のカシウスの台詞「ああ、ポーシャ」を想起させる。ローマ女性ポルキアは小カトーの娘で、カエサル暗殺者ブルートゥスの妻。夫に忠誠を尽し、祖国を愛する女性の鑑とされた。
シモンは同じシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』と『ハムレット』を取りちがえている。
先ず岩波文庫の注について。
残念ながら『ハムレット』にポーシャという人物は登場しない。『ジュリアス・シーザー』に登場する小カトーの娘本人を除けば、シェイクスピアに出てくる同名の女性といえば『ヴェニスの商人』のポーシャしかいないのだ。彼女は法学博士に扮して、シャイロックにあの有名な判決を下した女性である。
こういうことであろうか。
シモンは女房にポーシャと呼びかけた(岩波文庫でも鳥影社版全集でも「ポーシャ殿」と訳しているが、原文では単に「ポーシャ」である)。貞淑な女房殿(ブルートゥスの妻)という戯れ言のつもりだったのかも知れない。
ところがその響きが裁判官としてのポーシャを想起させた。自己弁護をする必要に駆られて口走ったのが、ハムレットの自己弁護の台詞であった。
『ジュリアス・シーザー』から『ヴェニスの商人』へ、そして『ハムレット』へとシェイクスピア繋がりで連想が飛んでいったのだ。
鳥影社版全集の注について。
『ジュリアス・シーザー』のカシウス(キャシアス)の台詞というのは、ブルートゥス(ブルータス)が妻の死を告げたときに、彼が発したものだろう。原文では「Ha? Portia?」だが、小田島雄志訳では「なに! 奥さんが!」、中野好夫訳と福田恆存訳では「えっ! ポーシャが!」となっている。殊更カシウスの台詞を想起しなければならない理由はないように思われる。
もう一つ、シモンは果たして『ジュリアス・シーザー』と『ハムレット』を混同していたのだろうか。いくら酔っ払っていたとしても、取り違えることなど出来るものだろうか。
『ハムレット』からの引用とされるのは、ハムレットがレアティーズに対して発した台詞である。レアティーズはポローニアスの息子、ポローニアスはハムレットよって刺し殺された大臣である。
ポローニアスは大学の頃に芝居をやったことがある。「ジュリアス・シーザーをやりまして、神殿で殺されました。ブルータスの手にかかり」(第3幕第2場)。その芝居とはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のことであって、同じ俳優がシーザーとポローニアスを、また別の同じ俳優がブルートゥスとハムレットを演じていたのではないかと想像する向きもある。
シモンがブルートゥスになったつもりで女房にポーシャと呼びかけたとき、シーザー殺しのブルートゥスは同時にポローニアス殺しのハムレットでもあり得たのだ。だからシモンはハムレットに憑依して自己弁護を行った。そして直ぐに「貞節の誉れ高き女房殿」と言ってブルートゥスに戻ることも出来た。
取りちがえで済ませるべきではないのかも知れない。