本の覚書

本と語学のはなし

キリストにならいて/トマス・ア・ケンピス

キリストにならいて (岩波文庫)

キリストにならいて (岩波文庫)

 学生時代にカトリック教会で洗礼を受けた時、代父から貰ったのは確かスカプラリオと無原罪のメダイとバルバロ訳の『キリストにならう』であった。
 代父とはあまり話したことがない。私と五歳程度しか違わない独身の男性で、飛び込みの営業をしていると聞いてはいたが、何の営業だったか知らない。マリア崇敬にことのほか熱心であった。彼の仲間たちからさえ「気を付けなさい」と、ある時私は忠告された。彼らはみなブルー・アーミーなどの聖母信心運動(今でも興味がないから、詳しいことは知らない)に何かしら関わったことのある人たちであり、その忠告がどのような意図から発せられたか定かではないが、確かにそれは健全な信仰とは思われなかった。
 聖母崇敬に傾きすぎた代父、教会で知り合った自傷癖のある女性、その代父を選択し自傷癖のある女性とも何がしか関係のあった神父に対する嫌悪から、私は直ぐに教会に行かなくなった。


 聖書の次によく読まれた本と言うが、当時は退屈で仕方なかった。
 老いさらばえて、社会的にも底辺で暮らしている今となっては、カトリック的な徳が自然と身に付いていることも多く、心に沁みるほどではないにしろ、面白く読むことができた。
 老年の一番の敵は無感動である。

信心ふかい人々が、非常に深い信仰と愛をもってあなたの聖餐式に列なるのを思いだすとき、主よ、私は幾度となく心中に惑いを覚え赤面するのです、あなたの祭壇や尊い聖体拝受の卓に、私がかほどにも熱意を欠き、冷淡な心で近づきますことを。また私の心がかように索漠として愛情のないままでいますのを。私が神さまでおいでのあなたの御前に出ましても、すっかり熱心さに満ちるとまでいきませんのを。また多くの信心ふかい人たちのように、烈しく心を引きつけられ、感銘を受けませんことを。(p.202)

 代父から貰ったものは、もう手元には何も残っていない。バルバロ訳の『キリストにならう』だけは、いつか買い直そうと思っている。