- 作者:田川建三ほか
- 発売日: 2014/08/11
- メディア: 新書
読み応えがあったのは内田樹と田川建三くらいかな。
元来雑誌の特集だったから仕方のない面もあるけど、それぞれの分量がちょっと少なすぎるし、大半はインタビューをもとに再構成した文章のようだから、密度も低い。
例えば池澤夏樹なんかは、自身はキリスト教徒ではないにしろ、祖母は聖公会の伝道師であり、作家の父・福永武彦は一度棄教したのち再びクリスチャンに戻っており、父のいとこで聖書学者の秋吉輝雄(この本にも登場する)とは『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館文庫)という本まで一緒に作っている。そういうバックグラウンドを持っているのだけど、ここでは単に文学作品の名を挙げて、これも聖書あれも聖書と指摘する程度にとどまっている。きちんと書けば面白い読み物になるだろうに、もったいない。
内田樹は例によってレヴィナス。いつも書いたり話したりしていることだろうし、『困難な自由』(国文社)などの翻訳もあることだし、ほとんど与太話としか思えないような他の人らの文章(お話し)とは一線を画している。
面白いのは、ユダヤ教は無神論に近いという指摘。神の不在に耐えつつ、神がいなくてもなお地上に正義を実現できるほどに成熟した存在であること。そのことのみが、そのようなものを創造した神の存在を証明する(現実のイスラエルとはだいぶ違う気はするが)。
内田が聖書の中で一番好きなのは、神のアブラハムに対する「家を出よ」という命令であるという。日本人の根源的な指向である「内へ」とは対極的な「外へ」というメッセージ。それが何であるのかと問うことは、日本のキリスト教徒にも課せられた大きな課題だろう。
田川建三は、日本のキリスト教界で田川のようなことを主張するとどういう仕打ちにあうのか知る上で、とても興味深い。それでも彼はしぶとく生き抜いてきた。コンゴで教員をした時の話なんか抜群に面白い。植民地支配の言語状況を、彼はここで実地に体験することができた。
宗教的には、田川は無神論、あるいはより正確には不可知論であるという。十戒では偶像崇拝が禁止されている。しかし、単に何かの像を刻んで拝むだけではなく、頭の中で神の理念を作り上げ、そこから全てを説明する。これもまた立派な偶像崇拝ではないかというのである。
私はまだ『イエスという男』(作品社)を読んでいないから、彼のイエス像を完全に理解しているわけではない。しかし、同時代の人間に比して著しく神を説明原理として援用することの少なかったイエス、仮に神の支配が行われるとしたらこの様であっただろうというところを実現しようとしたイエス(というのは、ちょっとクロッサンを勝手に入れ込んでしまったが)というのを考えると、何か無神論に近いユダヤ教というレヴィナス=内田の神理解に近づくような気もしないではない。
うまく噛み合うかどうか分からないが、内田と田川の対談なんて面白そうだ。