- 作者:富田 正樹
- 発売日: 2004/04/01
- メディア: 単行本
- 作者:富田 正樹
- メディア: 単行本
富田正樹『キリスト教との出会い 聖書資料集』。著者は同志社系の学校で聖書科の先生をしているそうで、内容も高校生向けといった感じ。
同じ著者の『信じる気持ち』。プロテスタントといっても考え方は様々だが、この人は狂信家っぽくは見えないので、一般の人にも比較的受け入れやすいのではないか。イエスの復活はいまだに「謎」であるが、見てしまったものは事実であるというあたりなど、キリスト教の信仰としては危ういのかもしれないが、遠藤周作も同じようなことを言っていた。
『舊新約聖書 引照附』。小型聖書で引照つきのものがないかと探してたら、昔の文語訳聖書が見つかった。しかし、引照は綴じ目のところにあるせいで、ほとんど用をなさないほど見にくい。活版印刷の頃のものなので、時折文字がかすれている。略書名も「ヨハネ傳福音書」が「約」となっているなど、慣れるのに時間がかかりそうだ。今ほど薄い紙を使っていないので、旧約続編つきのDUOよりも厚い。職場に持って行くには適さない。コレクションとして秘蔵しておくことになるだろう。幸い状態はすこぶる良い。
なんだかんだで職場へは新約聖書を携行することにした。新約だけでもっているのは、文語訳(詩篇つき)、バルバロ訳、フランシスコ会訳の三種類。文語訳はかなり薄くて持ち運びに便利だけど、引照つきとなるとカトリック訳の二つに絞られる。
バルバロは学生時代に電車で読んだ懐かしい訳だ。今の方が却っていろいろ発見があるかもしれない。例えば、ルカ1:28の天使ガブリエルの言葉の冒頭は「あなたにあいさつします、恩寵に満ちたお方」となっており、ここに付けられた注釈は以下の通りである。
「恩寵に満ちた」すなわちギリシア語の「ケカリトメネ」をこの文ではマリアの名の代わりに用いている。文字通り訳せばマリアは恩寵に満たされ、そうして恩寵を失わない者である。したがってヴルガタ訳をはじめ昔からの訳はすべて「恩寵に満ちた者」と訳している。
これは先日書いたマクグラスの指摘とは真っ向から対立する。おそらくバルバロは受動分詞が完了形であるのだから、状態受動として解するべきだと考えているのだろう。
一方フランシスコ会訳の方は「恵まれた者、喜びなさい」となっていて、この部分に注釈はつけられていない。*1
バルバロ訳かフランシスコ会訳か迷うところだが、とりあえずはフランシスコ会訳から始める。年二回通読するくらいのペースで読む予定なので、二回目はバルバロ訳にするかもしれない。
旧約の方は家でフランシスコ会訳を読む。一年で通読できればよい。