本の覚書

本と語学のはなし

恵みに満ちた方

 マクグラスの『キリスト教神学入門』(教文館)を読んでいたら、以前天使祝詞について書いたことに誤りがあったことが分かったので、記しておく。

 ルネサンス期になると人々は新約聖書のギリシア語原典に直接当たるようになった。そこで従来用いられてきたヴルガータ訳のラテン語が信頼できるものではなく、その上に成り立つ信仰や習慣にも神学的な基礎がないことが暴露されるようになったという。
 誤訳の一つの例として、天使祝詞が挙げられる。

ヴルガータによると、天使ガブリエルはマリアに「恵みに満ちた方」(ルカ一・二八)と言っている。これはマリアが恵みで満たされた貯蔵タンクで、そこから必要に応じて恵みを引き出せるという印象を与える。しかし、エラスムスが指摘しているように、ここのギリシア語はただ「恵まれた方」という意味なのである。マリアは神の恵みを受けた者ではあるが、だからといってその恵みを他者に与える存在でなければならないわけではない。ここでもまた中世の神学の重要な点が、人文主義による新約聖書の研究によって反論されることになったように見える。(p.88)

 これで代父が新共同訳の「恵まれた方」に激しく反発していた理由がよく分かった。ラテン語のように「gratia plena」(gratiaは「恵み」、plenaは「満ちている」)でなくては、マリアの共同贖い主としての資格を認める根拠が薄弱になりそうなのだ。
 ギリシア語の原文では「 κεχαριτωμένη」となっている。これは前にも書いたように「恵みを与える」という動詞の完了受動分詞であって、確かにこれだけをもって恵みに満ち満ちているとは言えないようである。

 したがって、カトリック教会のアヴェ・マリアは、文語の「聖寵満ち満ちてる」であろうが、最初の口語の「恵みあふれる」であろうが、現在の口語の「恵みに満ちた方」であろうが、全てヴルガータ訳に根拠を持っているのだ。決して「恵みあふれる」に対する反感から「恵みに満ちた方」という表現に辿り着いたわけではないだろう。
 どうやら代父の新共同訳に対する憎悪の記憶が、「恵みあふれる」の方に誤って結びついてしまったものらしい。訂正しておく。