本の覚書

本と語学のはなし

『図解雑学 道元』


中野東禅『図解雑学 道元』(ナツメ社)
 道元の生涯を手軽に知るにはいい本だが、思想の紹介には疑問が多い。例えば、道元が宋から帰国して直ぐに撰述した『普勧坐禅儀』からの引用。

 道本円通、いかでか修証を仮(か)らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費やさん。いわんや、全体迥(はる)かに塵埃を出ず。孰(だれ)か払拭の手段を信ぜん。(中略)心・意・識の運転をやめ、念・想・観の測量をやめ、不思量底を思量せよ。非思量。これ即ち、坐禅の要術なり。(104頁)


 「道本円通」に付けられた新全集の補注を見ると、次のように書かれている。

冒頭から「あに修業の脚頭をもちいんや」〔上の引用の「払拭の手段を信ぜん」の次に来る句〕までは、仏道は本来あまねくゆきわたっており、煩悩に汚れた世界を超えているから、修業など必要ないことを述べている。しかし、これは本証の側から述べたことであって、修業は必要ないということではない。修業は不要であるとする理解は誤りであることと、修業の必要性がこの後に説かれる。(『新全集14』31頁)


 つまり『普勧坐禅儀』は、一般的な誤解、あるいは道元のそもそもの出発点となった疑問を最初に書いて、それを駁する形で論を進めるという構造になっているのだけど、中野は中略の前の部分も道元の主張であるかのように(あるいはそう誤解されても仕方のない形で)紹介しているのだ。『普勧坐禅儀』といえば基本中の基本文献である。その取り扱いを見れば、他の部分も信用できなくなるのは当然だ。