本の覚書

本と語学のはなし

『正法眼蔵を読む5』


●春日佑芳『正法眼蔵を読む5』(ぺりかん社
 道元正法眼蔵』七十五巻本の解釈本。この巻では「葛藤」から「見仏」までを扱う。
 春日の特徴を明らかにするために、今日もまた、このところの長い引用ばかりの路線を継承する。
 「見仏」の一文。この文章は、「法華経」の引用の後に続く。

 おほよそ一切諸仏は「見釈迦牟尼仏」成釈迦牟尼仏するを成道作仏といふなり。かくのごとくの仏儀、もとよりこの七種の行処の条々よりうるなり。七種行人は、「当知是人」なり、如是当人なり。これすなはち見釈迦牟尼仏処なるがゆゑに、したしくこれ「如従仏口、聞此経典」なり。釈迦牟尼仏は、見釈迦牟尼仏よりこのかた釈迦牟尼仏なり。(岩波文庫3,224頁)


 普段は使っていないけど、参考までに石井恭二訳を書き抜いておく。これで分かるだろうなどと保証はしない。

 およそ一切の諸仏が、釈迦牟尼仏に見え、釈迦牟尼仏になることを成道し作仏するというのである。この人が、「まさに是の人であることを知る」のだ、それはこの七種の行を行ずる当人である。この行こそ「釈迦牟尼仏に見(まみ)える処」であるから、直接に釈迦の口から、この法華経を聞くのに同じである。釈迦牟尼仏は、自身が釈迦牟尼仏に見えてから釈迦牟尼仏となるのである。(河出書房新社4,19頁)


 これまた普段は使っていないけど、森本和夫の解釈本からも書き抜いておく。これまた、これで分かるだろうなどと保証はしない。

 総じて、一切の諸仏は、見釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏を見る→見える姿で現れている釈迦牟尼仏)、成釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏に成る→現成した釈迦牟尼仏)することを成道・作仏と言うのである。このような仏の在り方は、もちろん、この七種の行為(受・持・読・誦・正憶念・修習・書写)の一つ一つから得るのである。この七種を行ずる人は、当知是人(当に、是の人を知るべし)とされる是(絶対的な真実)を知っている当人であり、如是当人(そのような当人→あるがままの真実そのものである当人)である。これは、取りも直さず、見釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏を見る→見える釈迦牟尼仏)の場面なのであるから、まさに如従仏口聞此経典(仏口より此の経典を聞くが如し)にぴったりなのだ。釈迦牟尼仏は、見釈迦牟尼仏から以降において釈迦牟尼仏なのである。(筑摩書房7,237-8頁)


 最後に春日の解釈。これでも十分分かるとは言えないだろうが、だいぶすっきりとした見方を示してくれている。

 およそ一切諸仏は、釈迦牟尼仏(証の世界)を見て、釈迦牟尼仏(修するもの)となるのを成道作仏というのである。このような作法は、もちろん右の受持、読誦……等の七種を行ずる処、その一つ一つから得るのである。この七種の行者が「まさにこの人」と語られているのだ。証の世界を見ている当人である。この七種の行者は、すなわち釈迦牟尼仏(証)を見るところであるゆえに、このとき親しく仏の口より、この経典を聞いているのである。
 釈迦牟尼仏は、釈迦牟尼仏(証)を見ながら、さらに修行を続けた。(ぺりかん社5,276頁)


 春日解釈の基本的な考え方は、修行するところに見るのが証の世界であり、それは一般に言われるような見性としての「悟り」とは全く関係がないというものである。そして、その証は必ず修へと脱落する。修証一等である。
 意外と読めそうな気がして来ないだろうか? これだけが唯一の解であるとしてはならないが、一度ここまで単純化して読んでしまえば、今後は多彩な言葉に一々ついて回ってあたふたすることもなくなるだろう。


正法眼蔵を読む〈5〉

正法眼蔵を読む〈5〉