- 作者:青野 太潮
- 発売日: 1994/01/01
- メディア: 単行本
聖書とは矛盾をはらんだ逆説的な書物なのである。書かれてあることを書かれてある通りに信じることなどとてもできるものではない。正典化の歴史に絶対的権威があるとは認められないし、写本で伝えられる本文には多くの異読があって真正のオリジナルを復元することもできないし、翻訳もまたどれも様々な問題を抱えている。
だが、そうした不完全性を認識しておくことは重要なことなのだ。
なぜならば、「聖書」は人間の書いた他の文書とは次元のちがう神聖不可侵なものなどでは全くなく、むしろ全く逆にその原典そのものすらも存在せず、ただ人間の、相対的なわざ以外の何ものでもない文献学的な作業によって再構成されているものだという事実は、聖書それ自身が告げている教説に深く規定された現実を示しているからである。すなわち、人間は決して絶対的な正しさを持つことはできず、ゆるされなくては生きていけない相対的な存在なのだ、という教説によって規定された現実である。(p.257)
この不完全な人間に託された神の言葉は、不完全な人間によって不完全に記述され、不完全にまとめられて、不完全な聖書を形成し、不完全に伝えられて、不完全に翻訳される。だから、決して盲信は許されない。主体的に批判的に聖書を読むことが必要なゆえんである。
青野自身はどのように聖書を読んでいるのか。
イエスとパウロの根本的な主張は一致している。イエスは神の無条件で徹底的なゆるしを宣言し、パウロは不信心なままで義とされる信仰義認論を説いた。
そしてそれは、伝統的な贖罪論としての十字架の意義を相対化するものである。イエスは世の罪を贖うために十字架上に血を流し、それによって栄光のキリストになったのではない。十字架とは徹頭徹尾「弱さ」のことであり、力は弱さの内にのみ十全に表れるのであり、ゆるしの福音を説いたイエスはその「弱さ」の十字架上に死に、そして今なお「弱さ」の十字架を担い続けているのである。
青野の読みが説得力を持つかどうか。それを検証するには、私はもう少し注意深く聖書を読まなくてはならない。
私がもしクリスチャンになるとしたら、青野のような牧師がいる教会においてでしかありえないだろう。*1来年の目標は「聖書を批判的に読む」とすることに決めた。
*1:青野は日本バプテスト連盟に所属しているが、ここと深い関係にあるアメリカの南部バプテスト連盟は逐語霊感説を主張するファンダメンタリストが主導権を握っているというから、バプテスト派のところに行けばいいというものでもない。プロテスタントは教会選びが難しい。