ἀνδρὸς οὖν ἀγαθοῦ καὶ γενναίου καὶ φιλοτέκνου φρόνημα ἀναλαβὼν σεαυτόν τε καὶ τὴν μητέρα τοῦ νεανίσκου καὶ τοὺς συγγενεῖς καὶ φίλους ἔκλυσαι τῆς τοιαύτης κακοδαιμονίας, εἰς γαληνότερον μετελθὼν βίου σχῆμα καὶ προσφιλέστερον τῷ τε υἱῷ σου καὶ πᾶσιν ἡμῖν τοῖς κηδομένοις σου κατὰ τὸ προσῆκον. (121F-122A)
それゆえ、子供たちを愛する立派な気高い人間の精神を取り戻し、あなた自身、若者の母上、ご親族、友人たちをこのような不幸から解放し、あなたのご令息やあなたのことを案じているわれわれすべてにとって喜ばしいふさわしい仕方で、より穏やかな生活に従うようにしてください。(p.122)
プルタルコス『アポロニオスへの慰めの手紙』を読了する。
長かった。しかし、新しい仕事を始めた中で、途切れることなく読み続けることができたのは、大きな前進である。プルタルコスもセネカもモンテーニュも、決して諦める必要はない。これからも継続できるであろう。
プルタルコスの冗長な悪文に慣れてしまったおかげで、プラトンからの長い引用などはむしろ簡単であると感じるようになっていた。大学の教養科目でギリシア語が初級、中級、上級に分かれていたとしたら、プラトンはたしかに中級で読まれることが多いだろう。私も学生時代にはプラトンをよく読んでいた。それにしてもだ。当時の苦労は一体何だったのだろうか。
『アポロニオスへの慰めの手紙』は慰めの文学に属する。現在読んでいるセネカの『マルキアへ寄せる慰めの書』と同じ分野の作品である。
子供を亡くした親を慰めるという体裁のものが多いようだが、われわれの一般的な感覚からすると、少し理性が強調されすぎているように感じるだろう。子供の死を乗り越えたとして讃えられる例にも、共感できないかもしれない。
もちろんそのような先例が讃えられ、このような慰めの書が存在するということは、古代人にとっても、それらがある種の異常さを持っていたことは確かだろう。しかし、そこに崇高さを見出す人たちもまた多くいたのである。
次はロウブ叢書の第1巻に戻って、『講義を聴くことについて』を読む。