Habes, Serene carissime, quae possint tranquillitatem tueri, quae restituere, quae subrepentibus vitiis resistant. Illud tamen scito, nihil horum satis esse validum rem imbecillam servantibus, nisi intenta et adsidua cura circumit animum labentem. (p.284)
これで、親愛なるセレーヌス、きみは心の平静を保つことのできる手立て、心の平静を回復することのできる手立て、忍び寄る悪徳に対して対抗できる手立てを手に入れたことになる。ただし、この点にはくれぐれも心するがよい、すなわち、(精神という)脆弱なものを守ろうとする者にとって、こうした手立てのどれ一つをとっても、十分に有効なものはない、今しもくずおれようとする精神を真摯な不断の気遣いをもって包んでやらないかぎりは。(p.446)
セネカの『心の平静について』を読了する。
ストイックという言葉はストア派的ということだから、ストア派のセネカはさぞかし厳めしい教えを垂れることだろうと思うかもしれないが、必ずしもそうではない。ストア派にはストア派の厳格な大原則がある。それは確かにマッチョである。しかし、それを現実に合わせて実践するときには、それなりに修正されるのである。
原則から言えば、公的な務めに邁進するのがストア派の義務であるだろう。だが、それがパワーゲームに過ぎないような時代であり、多くの者にとって隷属しか意味しないような時代であるならば(いつの時代もそうかもしれないが)、あえてそこから身を引くことも許される。
セネカは完全な隠棲を勧めるわけではない。緊張と弛緩を適度に案配することが大切だと、ローマ的な至極まっとうな結論を下すのである。飲酒だってカトーを楯に取り、悪癖に陥らぬかぎりは悪いものではないという。「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかめつらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである」(p.445)。
ストア派というのは、厳格な原則を生きる人たちのことではなく、それをイデアとして目指しつつ、決して至り得ぬ途上の人間であることを知っている人たちのことなのかもしれない。
次は『閑暇について』を読む。『幸福な生について』の一部と考えられていたこともあったが、現在では別の作品とされている。テキストの欠落もあり、比較的短い。