本の覚書

本と語学のはなし

ラテン文学を学ぶ人のために/松本仁助・岡道男・中務哲郎編

 リウィウス・アンドロニクス(断片のみ)やエンニウスからアウグスティヌスボエティウスまでの長いラテン文学の歴史を概観する。
 ラテン文学はギリシア文学の模倣に過ぎないのではないかと思われるかもしれない。私も昔はそう考えていた。しかし、後のヨーロッパの文学と言語に与えたインパクトは、ローマがギリシアを遥かに凌ぐ。ただ真似てみただけではなかったからだろう。


 モンテーニュラテン語で育てられたから、ラテン文学はラテン語で読む。多くの作家からおびただしい引用をするけれど、それもラテン語のままである。
 ギリシア語の方はどの程度できたか定かではないが、原語で楽々と読書するほどの力はなかったのかもしれない。彼がプルタルコスに親しむのは、プルタルコスがフランス人になってから、すなわちアミヨのフランス語訳が登場してからのことだ。
 したがって、モンテーニュを読むのに必要な知識は、ギリシア文学よりもラテン文学であり、ギリシア語よりもラテン語なのである。


 モンテーニュが愛読したセネカについて、大西英文の解説を書き抜いておく。大西は岩波文庫の『生の短さについて』の新しい訳者である。

タキトゥス、ディオー・カッシウス以来、セネカのある面での言行不一致への批判は、ともすれば彼の、特に倫理哲学書の正当な理解を妨げる躓きの石となってきたが、自らを「(理想の賢者への)途上にある者プロフィキエンスと位置づけるセネカの告白に耳を傾け、セネカが人に与える言葉は、また自らへの戒めでもある(悲劇も含めて、セネカの「すべての作品はある意味で彼自身との対話である」と的確に評した人がいる)と捉えれば、セネカ哲学書の真価を見誤ることもないであろう。人を難ずる前にわが身を顧みよ、という彼の忠告(『幸福な人生について』17-9)を銘記し、われわれは「むしろ賞賛すべき彼の格言によって判断する(B. ラッセル『西洋哲学史』)のが正しい態度ではないか。(p.185)

 大西は「彼〔セネカ〕とキケローの哲学的著作がモンテーニュの『エセー』の出発点となったことはよく知られている」(p.199)とも書いている。
 たしかにモンテーニュキケロをよく読んでもいるし、よく引用もしている。しかし、セネカキケロの評価には決定的な違いがあった。おそらくキケロが残した書簡のせいなのだろうが、彼を虚栄心の塊とみなしている。セネカの方は、タキトゥスが描く最期の様子に真実を見ていたようである。

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