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怒りについて 他一篇/セネカ

 「怒りについて」と「神慮について」の2編を収める。
 セネカの道徳論集は12編残されており、岩波文庫では、茂手木元蔵の旧訳だと5編、現在の新訳だと「賢者の恒心について」(『怒りについて』の方に収録)を合わせて6編読むことができる。更に、光文社古典新訳文庫には「母ヘルウェティアへのなぐさめ」(『人生の短さについて』に収録)も訳されているから、文庫本だけでも7編に触れることが可能なわけである。
 残る5編は、茂手木が訳すタイトルに従うと、「アルキアあて、慰めについて」「ポリビウスあて、慰めについて」「余暇について」「寛容について」「善行について」である。
 この他の哲学的著作は、道徳書簡集124通(モンテーニュが特に評価するのは、書簡集の方である)、自然研究8編がある。茂手木の全訳や岩波の哲学全集があるけど、絶版であり、入手しようとするとなかなか高価である(特に岩波の方)。
 悲劇は10編。京都大学出版会の古典叢書に2分冊で訳されている。
 もう一つ、『アポコロキュントシス』(茂手木は『かぼちゃになった王様』と表記)という風刺的な小品がある。岩波文庫ペトロニウス『サテュリコン』に収録されている。ロウブ叢書でもこの作品だけはセネカの巻に入らず、ペトロニウスと一緒にされている。


 セネカストア派の人であるから、なかなか厳しいことを大上段に構えて言ってくるのだけど、その実最終的には、実行可能なところで折り合いをつけようとする節も見られる。そこに評価の分かれ道があるかも知れない。


 モンテーニュセネカに多くを負っているが、判断までも借りてきたわけではない。
 たとえば、セネカは小カトーの死に方に究極の徳を見ているようだ。

神々が大きな喜びをもって、このカトーをご覧になったことが、私にははっきりわかる。それは、自分の恨みには激しく復讐したこの人物が、他人の安全を心配して逃亡者たちの逃走を準備していたときのことである。また彼が、この世の最後の夜さえもなお勉学に過ごしていたときのことである。聖なる自己の胸に剣を突き刺したときのことである。そしてまた、自己の内臓を開いて、あの最も神聖な心臓を、鉄で汚すに忍びずとして、自らの手で引き出したときのことである。こうなったのは、傷が的を外れて致命的ではなかったからだと私は信じたい。不死なる神々には、ただ一度カトーをご覧になるだけでは不十分だったのだ。カトーの勇気はいったん止められたのち再び引き戻されて、前よりも難しい役割によって自己を示すことになった。というのは、死は最初のときよりも、再び繰り返される時のほうが一層大きな精神力を要するからである。確かに神々は、あのように輝かしい、記憶すべき最後をもって現世から脱出した自分の教え子を、喜びをもってご覧になったのではないか。死は、それを恐れる者たちでさえも賞賛するほどの、立派な最後を遂げた人々を神化する。(「神慮について」、p.194-195)

 カトーはカエサルに追い詰められて壮絶な自殺を図るのだが、一度目は失敗し、再び意識を回復した後に、手当てをしていた医師を斥け、傷口を手で開いて死んだという。
 モンテーニュは、しかし、カトーを高く評価しつつも、こうした激情の中で行われる激しい自死は、徳のない人の場合でもまだ行われることが可能であり、真の徳を示すのはソクラテスの死のように、そして恐らくはセネカ自身の死のように、死の恐怖を微塵も感じさせず、平生と何ら変わりなく穏やかに迎える死であると考えていた。
 なお、カトーが最後まで読んでいたというのは、プラトンの『パイドン』であったという。

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