本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集6 モンテーニュ随想録6/モンテーニュ

 第3巻第1章から第8章までを収める。
 いよいよモンテーニュの筆が自在に動き始めるといった趣がある。全巻を最初から通読しようとしても挫折する恐れがある。先ずは第3巻のいくつかの章をつまんで読んでみるのもいい。そう助言する人も多いようだ。
 モンテーニュ自身の本の読み方も、時には根をつめて一気に通読するようなこともあったが、好きなのは気ままにあれこれの本のそこここを覗いてみることであった。プルタルコスセネカが好きだったのは、一つにはそういう読書のためにうってつけの分量で区切られていたからでもあろう。

家にいると、かなりしばしば、わたしは図書室リブレーリに身を避ける。そこからわたしは、すわったままで家じゅうを監督する。わたしは入口の真上にいて、すぐ目の下には菜畑も鶏小屋も中庭も、またわが家の大部分の部屋の中までも見渡す。そこでわたしは、或るときにはこの本を、また或るときには別の本を、これという順序も計画もなく、あれこれ、断片的に、頁をめくる。或るときは夢想し、或るときは歩きまわりながら、ここにあるような夢想を記録したり口授したりする。(第3章「三つの交わりについて」、p.90)

 そして、もう一つ、モンテーニュにはとっておきの読書法があった。

実際わたしは書物をあまり使ってはいない。それは全然その有難味を知らない者どもとほとんどかわりはない。わたしはちょうど守銭奴がそのお宝をたのしむように、読もうと思えばいつでも読めるんだと思って、満足している。わたしの霊魂はこういう所有権だけでけっこう満足しているのだ。わたしは戦争のときも平和なときも、書物を持たずに旅することはない。けれどもそれを用いないで、幾日も、いや、幾月も、たつことがあろう。「そのうち読もう。」「明日は読もう。」いや、「いつか気がむいたら」とわたしは思う。その間に時は走りすぎる。でも別に気にはならない。まったく、「書物は常にわたしのそばにある、欲するときにはいつでもわたしを楽しませてくれる」と考えると、またいかに書物がわたしの生活の助けになるかと思うと、わたしは言葉ではいえない安心安堵を覚えるのである。それこそ人生行路のために、わたしが見出しえた最良の糧である。(同上、p.89-90)


 一体全体、モンテーニュは何のために本を読むのだろうか。

わたしはただその日その日を送っている。そしてまことに申し訳ないが、ただわたしのためだけに生きている。それがわたしの企ての究極なのである。わたしは若いころ見せびらかしに勉学をした。それから、いささか賢くなろうと思って勉学した。今はただ気晴らしのために本を読む。決して何かを得ようがためではない。(同上、p.94)

 引用ばかりになってしまったが、モンテーニュ自身の言葉を読むのがやはり一番楽しいのである。時には煙幕が張られているらしいことに注意しなくてはならないが。