本の覚書

本と語学のはなし

イエスの殺害をからだに負う【ギリシア語・ラテン語】

 コリントの人々への第二の手紙4章9-10節。

διωκόμενοι ἀλλ’ οὐκ ἐγκαταλειπόμενοι, καταβαλλόμενοι ἀλλ’ οὐκ ἀπολλύμενοι, πάντοτε τὴν νέκρωσιν τοῦ Ἰησοῦ ἐν τῷ σώματι περιφέροντες, ἵνα καὶ ἡ ζωὴ τοῦ Ἰησοῦ ἐν τῷ σώματι ἡμῶν φανερωθῇ.

persecutionem patimur, sed non derelinquimur; deicimur, sed non perimus; semper mortificationem Iesu in corpore nostro circumferentes, ut et vita Iesu in corpore nostro manifestetur.


 普通「死」には「タナトス」を使うが、ここではなぜか「ネクローシス」である。岩波訳は、それゆえこれを単に「死」と訳すのは誤りであるという。

迫害されながらも、見棄てられてはおらず、投げ倒されながらも、滅ぼされてはおらず、常にイエスの殺害をこのからだに負って〔歩き〕まわっている。それはイエスの生命もまた、私たちのこのからだにおいて明らかにされるためである。

 ただし、パウロがここで「ネクローシス」を選択した意図は分からないながらも、普通は単に「死」のことと解されており、田川建三もそう考えている。


 フランシスコ会訳の解釈も独特である。聖フランシスコ的であると言うべきか。

迫害されますが、見すてられはしません。打ち倒されますが、滅びはしません。わたしたちは、いつもイエスの死に瀕した状態を体に帯びています。それはまた、イエスの命がこの体に現れるためでもあります。