反復
旧約に出てくるお気に入りの人物の物語ばかり繰り返される。旧約にはまだ民族の遺産としての多様性が保存されていいるが、クルアーンでは背後で全てを操るアッラーだけが強調され、善と悪の単純な二元世界における単純な勧善懲悪の説話へと図式的な捨象が行われているだけ。これでは飽きてしまう。
しかも全てをみそなわすアッラーは、信仰を持たせるのも放棄させるのも意のままになさるのであって、しかも不信仰の責めは不信仰者自身が負わねばならず、現世で無慈悲に滅ぼされるにしろ、のうのうと生きるにせよ、いずれにしても来るべき審判の日には永遠の地獄の火に無慈悲に投げ入れられる運命にあるのだと、激しい口吻で呪詛したまうのである。
一神教
蜘蛛 45[46]
それから、お前たち、啓典の民*1と論争する場合には、立派な態度でこれにのぞめ。と言うても、特に不義なす徒輩(やから)を相手にする場合は別だが。こう言っておくがよい、「わしらは、わしらに下されたものも、お前がたに下されたものも信仰する。わしらの神もお前がたの神もただ一つ。わしらはあのお方にすべてを捧げまつる」と。
さて、イスラム教の神は、同じく一神教を掲げるユダヤ教やキリスト教の神と本当に同じものだろうか。イスラム教徒は同じであるという。キリスト教徒がイエスを旧約の成就と考えるように、イスラム教徒もマホメットが旧約においてすでに預言されていたと信じている。
ただ、イスラムの神は旧約にも新約にも精通はしていないように見える。あるいは、クルアーンで伝えられていることの方が真実であるとすれば、旧約も新約も不完全な形でしか神の意志を伝えることができなかった、もしくは故意にそれを捻じ曲げてしまったということになる。同じ神とは言っても、三つの宗派が矛盾なく共存するのは不可能であるように思われる。
クルアーンを読んでいて何か物足りなく感じるのは、ユダヤ教やキリスト教において偏執狂的に顕在化している贖罪や聖化の思想が欠如しているせいだろうか。イスラム教は神のモノローグである。少なくともクルアーンを読む限り、人間の側から神へ関わろうとする悲痛な姿勢は全く感じられない。
人間マホメット
マホメットの解放奴隷で、彼の養子となったザイドは、美人の妻を離縁し、彼女をマホメットに譲った。これはアッラーの認め給うところとなった。「用済み」となれば養子の妻であれ娶ることができるようにと、一般信徒のためを思って神が規則を作って下さったのである(部族同盟37-39)。
部族同盟 49-52
これ預言者*2よ、我ら*3が特に正当なものとして汝に許したのは、まず汝が正式に金を払った妻、次にアッラーが戦利品として授け給うた奴隷女、父方の叔父の娘に父方の叔母の娘、母方の叔父の娘に母方の叔母の娘などで汝と一緒に(メッカから)移ってきた者、それに、自分から預言者*4に身を捧げたいという信者の女があって、預言者の方でもこれなら嫁にしてもいいと思ったなら誰でもよろしい。但し、これは汝*5だけの特権であって、一般の信者には許されぬ。妻および奴隷女に関して、彼ら*6に与えた規定*7はわかっておる。これは汝が非難されてはいけないと思っての処置である*8。まことに、アッラーは実に気のやさしい、慈悲ぶかいお方。
彼女ら*9のうち、どれでも汝の意のままに延期し*10、またどれでも気に入った者を引き寄せるというふうにしてよろしい。一時遠ざけた女でも、また欲しくなったら、それはそれで差支えない。その方が結局女達も気持ちがよく、くよくよせずにすむからかえってよい。一人一人がみんなお前から受けるもので満足することにもなろうというもの。アッラーはお前たちの心の底まで見抜いていらっしゃる。まことに大層なもの識り、大層なわけ識りにおわします。
だが汝*11も今後はもう(これ以上の)女はご法度である。また、いかに素敵な美人が出て来ても、それを(現在の妻)と取替えたりしてはいけない。と言っても勿論、自分の女奴隷だけは論外だが。アッラーはどんなことでも監視していらっしゃる。
マホメットは預言者である。しかも、ただの預言者ではない。打ち止めの最愛の預言者である。そのような預言者には肉的な特権を大々的に与えるほどに、アッラーは実に慈悲深いお方である。
マホメットは預言者であるが、それ以上のことは僭称していない。本人も言っているとおり、人間なのである。