本の覚書

本と語学のはなし

Jenseits von Gut und Böse


 学生時代、厳密なことを言おうとすれば何も言葉にならず、言葉を紡げば全てが瓦解して行くような無力感に襲われて、失語症のような時期を過ごしたことがある。ニーチェに出会ったのはその時だ。こんな勝手なことを断言してもよいのかと可笑しくなって、元気を取り戻した。
 当時とは症状が違うかもしれないが、最近あまりに下らない気がして何も書く気になれない。そう思っていたところ、先日本屋で、中山元によるニーチェの新訳を見かけた。そうだ、ニーチェを読もう。
 もちろん、フランス語の翻訳者と思ってた人が、すっかりドイツ語の翻訳者としても定着しているのに発奮したということもある。


 『善悪の彼岸』の冒頭は有名だろう。岩波文庫の木場深定訳と共に書き抜いておく。

 Vorausgesetzt, dass die Wahrheit ein Weib ist ――, wie? ist der Verdacht nicht gegründet, dass alle Philosophen, sofern sie Dogmatiker waren, sich schlecht auf Weiber verstanden? dass der schauerliche Ernst, die linkische Zudringlichkeit, mit der sie bisher auf die Wahrheit zuzugehen pflegten, ungeschickte und unschickliche Mittel waren, um gerade ein Frauenzimmer für sich einzunehmen? (dtv, p.11)

 真理が女である、と仮定すれば―――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っこに取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。(7頁)


 ひどい訳だ。しかし、最近は翻訳に対する評価がすっかり甘くなってしまって、「女っこ」とはすごいと、却って喜ぶ始末である。「Frauenzimmer」も軽蔑語らしいので、間違っているわけではないのだけど。
 誰もそんなことを認めてはくれないだろうから自分で言っておくが、私の文体に大きな影響を与えているのは、ニーチェ森鴎外だと思う。