本の覚書

本と語学のはなし

ΠΟΛΙΤΕΙΑ


 図書館で古代ギリシア語の勉強をする女性を見かけた。はっきり確認したわけではないけど、大学書林の四週間シリーズはカバーを外しても言語によって色が違う。彼女が持っている本の色は、古川晴風の『ギリシア語四週間』によく似ている。辞書もまた古川晴風が大学書林から出しているものにそっくりだ。ただし、大学書林のマイナー言語の辞書はみな同じような装丁なので、遠目にはギリシア語かどうか自信を持って判別することはできない。
 四週間シリーズを使っているということは、恐らく独学なのだろう。本はまだ汚れていないので、それほど学習が進んではいないのかもしれない。辞書は図書館のものを使用している。大学書林のは買えば五万近くするから手が出ないとしても(というより、買わない方がいい)、独習書は辞書なしでも学べるように作ってあるので、オックスフォード等の欧米の辞書もまだ持っていないのだろう。しかし、変化の複雑なギリシア語の場合、英語とは違って、辞書を引くだけでもそこそこ力が必要であり、初歩の段階としてはよく健闘しているのではないか。ノートも念入りに取っているようだ。私はノートの取り方も保存の仕方もよく分からないので(未だに分からない)、いい加減な勉強しかしたことがない。何だか凄い人に出会ったのかもしれない。
 ちょっと興味をそそられたが、声はかけなかった。現段階では私の方がギリシア語の知識はあるだろうが、それだといかにも「教えてあげようか」と言いたげな接近になってしまいそうだ。しかし、実際には人に教えるだけの力はない。かと言って、交流を深めて一緒にギリシア語を学んでいこうというのも煩わしい。何よりも、新約聖書を読みたくて勉強を始めたというような熱心なクリスチャンだったとしたら、かつて一度カトリック―――しかも、似非カトリック―――であっただけの人間には、仲良くお話しするようなことは何もないのだ。


 しかし、自分でも呆れてしまうが、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語のために、少しだけ時間を割くことにしようと思い立つ。続くのかどうかは分からない。いつも秋になると活動が急に拡大し、やがて凋んでいく。そういう時期なのかもしれない。
 今日はプラトンの『国家』を一文だけ読む。新パソコンでもギリシア語の入力をできるようにしたので記念に書き抜いておく。ソクラテスの皮肉なセリフである。英訳はロエーブ叢書のもの、和訳は岩波文庫の藤沢令夫のもの。

 Οἴει γὰρ ἄν με, εἶπον, οὕτω μανῆναι, ὥστε ξυρεῖν ἐπιχειρεῖν λέοντα καὶ συκοφαντεῖν Θρασύμαχον;

 Why do you suppose, I said, that I am so mad as to try to beard a lion and try the pettifogger on Thrasymachus?

 「ほほう」とぼくは言った。「トラシュマコスをぺてんにかけるなどという、『ライオンのひげを剃る』にも似たことを試みるほど、このぼくが血迷うとでも思っているのかね?」