本の覚書

本と語学のはなし

池内紀訳『変身』


 活きのいい今のフランス語を学ぶために「Reader’s Digest Sélection」を定期購読しようと考える一方で、その時間をフランスとドイツの文学にあてたいという誘惑もある。
 恥ずかしくて大きな声では言えないが、私はドイツ文学を専攻していた。時々文学青年の振りをしたくなるのである。
 このところ文学を読み続ける根気がない。少しばかり池内紀の翻訳術を勉強する、という程度で終わるかもしれないが、カフカの『変身』を取り上げる。


 Es war kein Traum. Sein Zimmer, ein richtiges, nur etwas zu kleines Menschenzimmer, lag ruhig zwischen den vier wohlbekannten Wänden.


 自信のない点もあるが、直訳するとこういうことだろう。


《夢ではなかった。彼の部屋は(幾分小さすぎるだけで、れっきとした人間の部屋である)何事もなく、4つの見慣れた壁に囲まれていた。》


 池内訳ではこうなる。


《夢ではなかった。たしかに自分の部屋であって、少しちいさすぎるにせよ、いつもながらの部屋である。まわりはおなじみの壁、これも変わらない。》


 1つ目の工夫は、同格を述語的に訳すこと。時と場合により、文脈からいろいろな接続詞を補って再構築する必要がある。ところで、ここで「ein」という不定冠詞が使われているのはなぜだろう。「Menschenzimmer」という単語は『独和大辞典』には載っていないので、造語かもしれない。夢ではなかった。彼の部屋も、夢の世界の「虫」の部屋ではなく、現実の「人間」の部屋である、ということなのだろうか。池内訳ではそこら辺がよく分からない。
 2つ目の工夫は、前置詞の「zwischen」以下を独立した文章として訳すこと。その際、付加形容詞を述語的に扱うこと。「これも変わらない」に相当する原文は存在しないが、前で「いつもながらの部屋である」と暴走気味に訳した勢いそのままに、付け加えられたものらしい。


 意図的な逸脱と言うべきか、完全消化と言うべきか。大胆な省略と換骨奪胎。私には絶対に真似できない翻訳である。
 そうそう、虫になったグレーゴル・ザムザのかぼそい脚が「flimmern」しているという描写がある。この動詞、辞書で調べても「ちらちら、きらきら光る」という意味しかないようだが、池内は原因へと置換し「ワヤワヤと動いていた」と翻訳する。その手法といい、「ワヤワヤ」という擬態語の選択といい、真似できるものではない。