本の覚書

本と語学のはなし

校正

 前に所属していた課の課長のところに、ある専門小冊子から原稿依頼が来た。専門的な論考ではなくて、それぞれの自治体での取り組みを紹介する小文である。たいていはちょっとした数字にお決まりの苦労話を加えて出来上がりだ。しかし、わが課長はその程度のものも書けないので、係長にお鉢が回る。係長は何とか書いたものの、文章にはからっきし自信がない。本庁からはるばる私のところにやってきて校正を依頼した。掃き溜めのような課なので、人がいないらしい。
 この係長、弁は立つのだが、文は下手なのだ。不思議で仕方ない。構成は活かしながら、字句はほぼ全面的に書きかえた。


 文章が下手というのは、どういうことなのだろうか。
 先ず気がつくのは、同じ語句や表現が漫然と繰り返されること。「フランス」を「ヘキサゴン」に言いかえろとまでは言わないが、ちょっとした工夫で何とでもなるところを放っておくのはいかにも幼稚な印象を与える。「しかし」の多用もいただけない。
 だが、工夫しようにも語彙や表現のストックがないために応用もできないというのが実情のようだ。つまり、まったく本を読まないのである。この係長、昔、「やぶさか」という言葉を聞いたこともないと言っていた。公務員が使うといやらしく響く場合があるので実用しなくても構わないのだが、知らなくていいわけはないだろう。
 本を読んでいないと言えば、言葉が足りなかったり、冗長すぎたりするのも、そのせいなのだろう。言葉のつぎ込み方の加減が全く分かっていないのだ。
 もうひとつは、論理的な整合性が、細かいところでほころんでいるのである。頭のいい人で、あれこれと書きたいことが思い浮かぶのだろうけど、うまくまとまらない。削ることを知らない。公務員にありがちな総花的でヤマがない文章とういうだけならまだしも(私は大嫌いだが)、前後のつながりを無視してのてんこ盛りとか、文頭で規定された方向の踏み外しとかになると、読む側に要らぬ負担をかけてしまう。苛立った読者はこう叫ぶだろう、「こいつは頭が悪いに違いない」。


 曇り空の撮影は工夫が必要。