5 Καὶ εἶπεν πρὸς αὐτούς· τίς ἐξ ὑμῶν ἕξει φίλον καὶ πορεύσεται πρὸς αὐτὸν μεσονυκτίου καὶ εἴπῃ αὐτῷ· φίλε, χρῆσόν μοι τρεῖς ἄρτους, 6 ἐπειδὴ φίλος μου παρεγένετο ἐξ ὁδοῦ πρός με καὶ οὐκ ἔχω ὃ παραθήσω αὐτῷ· 7 κἀκεῖνος ἔσωθεν ἀποκριθεὶς εἴπῃ· μή μοι κόπους πάρεχε· ἤδη ἡ θύρα κέκλεισται καὶ τὰ παιδία μου μετ’ ἐμοῦ εἰς τὴν κοίτην εἰσίν· οὐ δύναμαι ἀναστὰς δοῦναί σοι. 8 λέγω ὑμῖν, εἰ καὶ οὐ δώσει αὐτῷ ἀναστὰς διὰ τὸ εἶναι φίλον αὐτοῦ, διά γε τὴν ἀναίδειαν αὐτοῦ ἐγερθεὶς δώσει αὐτῷ ὅσων χρῄζει.
5 そしてまた、イエスは弟子たちに仰せになった、「あなた方の誰かに友人がいて、真夜中にその人の所に行って、『友よ、パンを三つ貸してください。 6 友人が旅の途中で立ち寄ったが、何も出すものがないから』と言うとする。 7 すると、彼は家の中から『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子供たちと一緒に床に入ってしまった。起き出して、貸すわけにはいかない』と答えるに違いない。 8 しかし、あなた方に言っておく。友人だからといって、その人が起き出して、貸してくれることはないかもしれない。しかし、その執拗さに起き出して、必要なものを何でも貸してくれるだろう」。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる」という有名な教訓の前に置かれたたとえ話である。
求めなさい云々はマタイにも並行記事があるが、たとえ話の方はルカにしか見出されない。イエスが実際に話した言葉が元になっているのかも知れないし、後に作文されたものかも知れない。
聖書を読んでいると、時々常識的な判断の斜め上を行く言葉に行き当たる。
このたとえにおいても、夜中に起こされたからと言って友人の頼みをすげなく断るべきではないということが言われるのではないかと予想する。自分もまたそのような出来た人間でないことを反省しかける。
しかし、イエスは言うのである。友人だからといって、夜中に無理難題を持ちかければ嫌な顔もするだろう。頼みごとをしたところで断られるにちがいない。だから、頼みとするべきは友情ではない。あなたの頼みが聞いて貰えるまで、相手が根負けするまで、執拗に頼みなさい。その執拗さこそが大事なのである、と。
最終的にこの話は、父と子の関係から更には神と人との関係へと収斂していく。切実な頼みは、やがて全身を投げ出し、己を無とするところまで行き着くのかも知れない。執拗さの内に、信頼が宿り、信仰が生まれるのかも知れない。