本の覚書

本と語学のはなし

【ドイツ語】われに剣を与えよ【ダントンの死】

 ビューヒナー『ダントンの死』第1幕第2場「横丁」より、シモンのセリフ。

SIMON Alter Virginius verhülle dein kahl Haupt. Der Rabe Schande sitzt darauf und hackt nach deinen Augen. Gebt mir ein Messer, Römer! Er sinkt um.

 河出書房新社と鳥影社の全集とでは、解釈が異なることがままある。この箇所もその一つである。



 鳥影社の訳。

シモン 娘の操を守ったヴィルギニウスを思うと、おれはわが身が恥ずかしい。恥という鴉が頭にとまって目ん玉を突っつかないよう、この禿頭を隠すほかねえやな。われに剣を与えよ、諸君、ローマびとよ!(ぶっ倒れる)

 私の持っているテキストをそのまま読めば、この訳のような意味になる(訳しづらいのか、大分構文を変えてしまっているが)。
 最初の一文の主語は「老ヴィルギニウス」。動詞は接続法Ⅰ式で3人称の命令形と考えるべきだろう。禿頭には「お前の」という2人称の所有冠詞が付いているが、これは自分に対して使っているものと解釈する。
 直訳すれば、「老ヴィルギニウスがお前の(=おれの)禿頭を隠すように」ということである。
 ヴィルギニウスというのは古代ローマの平民で、好色な貴族の魔手から守るために自分の娘を刺殺したという人である。酔っ払いのシモンは、プロンプターだけあってセリフが芝居がかっている。しかしその実、自分の娘が娼婦になっていることへの心情を吐露しているようである。


 河出書房新社の訳。

シモン 老ヴィルジニュスよ、汝の禿げたるこうべを隠せ――恥辱という名の烏が飛んできて、そこにとまって汝の目を突きだすぞ。わしに短刀をくれ、ロマびとよ!(ひっくり返る)

 鳥影社のとは全く異なる解釈である。
 私はテキストの問題には深入りできないが、おそらく河出書房新社版が用いている底本にはこんな風に印刷されていたのだろう。

Simon Alter Virginius, verhülle dein kahl Haupt - der Rabe Schande sitzt darauf und hackt nach deinen Augen. Gebt mir ein Messer, Römer! Er sinkt um.

 最初の「老ヴィルギニウス(ヴィルジニュス)」は呼格(呼びかけ)であり、次の動詞は2人称への命令形である。動詞の主語も、その後に出てくる2人称の所有形容詞が指し示すのも「老ヴィルギニウス(ヴィルジニュス)」である。
 テキストにそう書いてあれば(実際ネットで検索したテキストにはそう書いてある)、このように解釈するしかない。誤訳ということはできない。
 しかし、意味の上からは大いに困難がある。なぜヴィルギニウスが恥辱に見舞われることになるのか。娘の操を守るために彼女を刺殺したことが恥辱であるから、と考えることも出来るであろうが、それならなぜシモンは自分にも短刀を要求したのであろうか。


 元の手稿には「老ヴィルギニウス」の後にコンマがあったのかなかったのか、私は知らない。その有無によって全く別の意味になり得る。
 あるいは、シモンが自らを老ヴィルギニウスと同一視しようとしたところが、現実が脳裏によぎって恥辱の念に襲われ、いよいよヴィルギニウスたらんと思い立って短剣を要求したものであろうか。