- 作者:フローベール,ギュスターヴ
- 発売日: 2018/10/05
- メディア: 文庫
「素朴なひと」(岩波文庫では「まごころ」)は読みながら大分思い出した。そうそう、例の鸚鵡が出てくる話であった。
「聖ジュリアン伝」は最後の一文で、ああこれかと気がついた。「以上が、ほぼ、私の故郷の教会のステンドグラスに伝えられている、歓待の聖者ジュリアンの物語である」(岩波文庫では「これはわが故郷の教会の色絵硝子にほぼこのまま描かれている聖ジュリヤンの物語である」。新字体に直しておいた)。
「ヘロディアス」は確かにこのような話を読んだことはあると記憶はしているのだけれど、当時はなんだか当惑していたのかもしれない。舞台は新約の時代であり、サロメの舞踏がクライマックスにはなるのだけれど、新約の知識だけで読めるものではない。しかし、それは知識だけの問題ではない。ヨセフスを通ってきた今でも、やはりちょっと煙に巻かれたようなところはある。そもそものフローベールの仕掛けなのだ。
【語学】
各言語で中心的に、あるいは排他的に読むものを決めておくのはいいかもしれない。手当たり次第読むような時期ではもうない。
ヘブライ語は旧約聖書、ギリシア語は新約聖書、ラテン語はアウグスティヌス。ここまでは迷わない。
そもそも私の専門は聖書学と洗礼名を頂いた教父だけでいいはずなのだ。
だが、敢えてその他の言語でも、愛着を持って読むべきものを決めるとなれば、フランス語では断然フローベールだろう。
丹念に下調べをしながら必ずしも資料通りには書かず、書いたものをどんどん切り詰め時に限度を超えてしまうスタイルに、敬愛の念を抱かずにいられない。
そして、とどのつまりが『ブヴァールとペキュシェ』である!
ドイツ語はお金をかけたくないのであればニーチェ。原典は揃っている。問題はもう長らくニーチェを読みたいという気分になったことがないこと。
お金をかけてもいいならヘッセ。今なら原点に回帰して再び読めるかもしれない。
どうせ大した量を読むことは出来ないのだと割り切るなら、トーマス・マンの『魔の山』や『ブッデンブローク家の人々』だけに絞り込むのもあり。
しかし、ドイツ語ではそんなに読みたいものがないのかもしれない。ドイツ文学出身だなんて、恥ずかしくて言うことが出来ない。
英語も特にこれと言った特別の存在があるわけではない。むしろ英語では定点に留まらなくてもいいのではないかとも思う。
日本語では森鷗外か道元。ただ、道元はもう最近は読めないように思う。鷗外は肝心の史伝に食指が動かない。
全集を読み込もうなどと気負わないのであれば、安部公房。
【家庭菜園】
ペットボトルキャップ実験を経て、今も育っているのはチンゲンサイ1つ。暫く何の保護もなしに放置していたが、不思議と虫に食われることもなかったので、苗カバーを被せて育ててみることにした。
ハダイコンやコマツナで失敗したところに、もう一度コマツナの種をまき、今度は初めから苗カバーで保護してみる。
直径6センチほどのペットボトルキャップでは無理だったろうが、苗カバーならチンゲンサイもコマツナも収穫まで被せたままでいいかもしれない(間引きや土寄せをするなら、その都度外す必要はあるが)。
最近虫の被害が減っている気がする。
一時期捕殺ばかりしていたのが功を奏したのかもしれない。菌に冒され白化したアオムシを見つけたことがある。
しかし、害虫の天敵が増えたのも大きな要因ではないだろうか。住宅街の中にぽつんとある小さな畑だが、クモやカエルがたくさんいる。
17日に播種したニンジン、つるなしインゲン、エンサイ、秋キュウリの内、インゲンは翌日にもう土を持ち上げ始めた。エンサイは恐らく発芽率100パーセントを記録する。農薬処理は恐るべきものである。
ニンジンも薬でコーティングされた種を買えば、比較的よく発芽してくれるのだろう。まだ3日目である。リカバリーを考えるのは早すぎるが、失敗した場合の案も考えている。一つはエンサイを間引いて移植(インゲンはまた別のところに移植できるだろう)。一つはコマツナからカブへのリレー。