- 作者:青野 太潮
- 発売日: 2016/12/21
- メディア: 新書
新書だから細かい論証を省くのは仕方ないことかも知れないが、推測に過ぎないことがほとんど確実な事実であるとされて、そうした事実の上にほとんど確実なパウロの思想とされるものが構築されてゆく(しかも、逆説、逆説と連呼されるばかりで深みがない)、という印象を受けてしまう。
田川建三は岩波書店の新約聖書の訳をよく貶すが(個人的なものもあるのだろうが)、パウロ書簡に関しては殊にその水準の低いことを指摘する(パウロ嫌いの所為もあるだろうが)。例えば、二コリント11章8節の註にこんなことを書いている。
それでも、口語訳はまだしもおずおずと改竄しているだけだが、岩波訳となると滅茶苦茶である。この個所に限らず、非常に多くの個所でこの「訳」は、どこにも何の手がかりもないのに、パウロの書いている文の多数をパウロ自身の意見ではなく、パウロに対して「敵対者」なる者が言った悪口の「引用」とみなして「訳」している。その意味でも、岩波訳はひどく水準が低い。(『新約聖書 訳と註3 パウロ書簡 その一』p.516)
こうした翻訳上の振る舞いは、学問上の振る舞いとも等しいようだ。青野の信じる理想のパウロというものがあって、あたかもマルキオンのようにパウロの言葉を編集していくのである。
この書物は「パウロはそう信じているのである」(p.193)という断定で締めくくられている。