本の覚書

本と語学のはなし

卒業式

月は有明にて、光をさまれるものから、かげさやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。(『源氏物語』帚木15)


 冬期講習で読んだ文章の中に『おくのほそ道』の引用があった。「弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。」と出発の朝を描写している。
 古語辞典を引いて「月は有明にて光をさまれるものから」が「帚木」から借り受けた表現であることに気づいてはいたが、ようやくそれがどこにあるのかつきとめた。空蝉と契りを交わした朝、紀伊守の屋敷を出ようとするときのことである。原文では、空も見る人の心次第で優美にも空恐ろしくもなるものだ、と続いている。
 『おくのほそ道』は出だしからして中国の古典に負っている。きっと色々なところに、様々な言葉の記憶が刻み込まれているのだろう。単に空間を移動するだけでなく、時間と言語とを経巡る旅でもあると言いたいかのようだ。


 学校の卒業式に出席した。問題を抱えて入学する生徒が多い中、彼らの問題はどこまで解決されたのだろう。甘すぎる学生生活の後で、きちんとやっていけるのか心配になる。式はちょっとあっさりしすぎ。


 塾は今日、合格報告会のはずである。昨年は11日だった。大勢の生徒が集まっていた。私は上の階で研修を受けようとしていた。大きな揺れを感じたのはその時であった。*1