本の覚書

本と語学のはなし

『フィレンツェだより』


リルケフィレンツェだより』(森有正訳、ちくま文庫
 ルー・サロメといえば、ニーチェの求婚を断ったこともあるすごい女性だ。彼女はまた若いリルケをも虜にした。リルケはイタリアから彼女に、芸術論まで高められた内省的な書簡を書いたのである。


 人はひとりの詩人を持つべきである。リルケは私の詩人となり得るだろうか。それはまだ分からない。
 先ずは持っているところから始めよう。今私の本棚にあるのは、宮澤賢治中原中也、貰いものの谷川俊太郎、そしてボードレールリルケも愛したボードレールを試してみたい。
 私は日本の詩には興味がなくて、散文の場合よりはるかにその伝統から隔絶しているが、西洋の詩に食指が動かなかったのはそうではなくて、翻訳が信用ならなかったからである。ならば、ホメロスウェルギリウスを読んでいるように、かつてゲーテのいくつかを諳んじたように、原文で鑑賞する訓練もするべきだろう。岩波文庫から出ているイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ詩の対訳アンソロジーを持っている。しばらく中断していた『イギリス名詩選』を再び取り上げ、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語のローテーションの中に組み込んでみるのも一つの手だ。
 一体何が飛び出してくるだろうか。

 わたくしがポッジオ・ア・カヤーノや、フィレンツェのいろいろな教会や、海辺や、暗い松林で読んだあの《ローラン・ド・メディシス》は、わたくしにとってどんなに親しいものになったことだろう。何時も場所をかまわず、また頁もかまわずに、わたくしはそれを開く、牧場からやって来て、入口の場所もかまわず森に入り込むように。それがどこかに拘りなく、それはわたくしに親しいものになった。詩集を読むには、こうしなければならないのは、言うまでもない。森のへりで、木立の中で、それからまた夏の光の中で、その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。涼しさ、香り、光。(p.74)


 このような読み方ができないから、詩集が疎遠だったとも言える。


 もう絶版だから言う必要もないかもしれないけど、翻訳はフランス語訳からの重訳で、「徴し」に「シーニュ」というフランス語の振り仮名がついていたり、「ヴィーナス」もしくは「ウェヌス」がフランス語読みの「ヴェニュス」になっていたりする。二宮正之の解説も、リルケではなくて森(の翻訳)の解説になっている。森有正という人に全く興味がなければ憤慨する人もあるだろう。