本の覚書

本と語学のはなし

人と思想142 マリア/𠮷山登

 仮に私がキリスト教徒であるとして(かなり怪しいが)、もし教会に通う決心をしたとすれば(ほとんどあり得ないが)、カトリック教会になるだろうと思う。遙か昔に洗礼と堅信を受けたのがカトリック教会であるからだ。ある女性と神父と代父とから逃れるため、直ぐに教会を離れる結果にはなったが、今でもカトリックのシンパであることに変わりはない。


 カトリック教会では聖母マリアを崇敬する。
 プロテスタントではこれを警戒する。人間の神格化であり、偶像崇拝ではないかというのである。天使祝詞の kecharitomene(ルカ1 :28)をラテン語で gratia plena と訳したとき、まるでマリアの受けた恩寵が溢れて止まぬ泉のようなものだと誤解され、誰でも求める者の渇きを癒やすことが出来ると信じられることになったのだ、というようなことを、マクグラスが言っているのを見たことがある。
 この部分を新共同訳では「恵まれた方」と訳している。私の代父であった人はこれに憤慨し、バルバロ訳の「恩寵に満ちたお方」を褒め称えていた。私はマクグラスの言い分が必ずしも正しいとは考えないけれど、カトリックに行き過ぎが往々にしてあったことも確かなことで、私の代父も若いながら過去の遺物のような信心に凝り固まった人であった。彼にとってはマリアがほとんど全てであった。それ故私もまた、マリア崇敬を警戒する一人なのである。
 ちなみにカトリックの祈りでは、文語の「聖寵満ち満てるマリア」、口語の「恵みあふれる聖マリア」を経て、現在は「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方」となっており、いずれもヴルガタ訳を踏襲しているようだ。フランシスコ会訳は新共同訳と同じく「恵まれた方」であり、この節に注をして「救いの歴史におけるマリアの役割を示唆」と書いているが、ケカリトメネ問題には触れていない。


 この本はカトリックの側から書かれたマリア入門である。

マリア崇敬の根本的原理は、神の恵みの神学に他ならない。イエスの母マリアのすべてにおいて、神の恵みを認め、賛えることがマリアを崇敬する理由である。それは、ルカの福音のマリアへの受胎告知の物語の始めに天使を通して、「恵まれたもの」としてマリアを祝した神、イエスの父なる神を知り、神の恵みの賛美に加わることである。したがって、自然的に人間が聖者を賛美したり、神格化するのとは全く逆の方向をとる思考にもとづく。(p.166)

 マリア崇敬は神の恵み、イエスの救済などと無関係にあるものではなく、むしろ、ただひたすらそこを目指すものである。それ故著者は、無原罪とか被昇天とか、既にカトリックの教義となっていることには異を唱えないが、共贖者マリアを第5の教義にしようという動きに対しては、イエスの存在を霞ませるものだとして慎重な態度を示す。


 残念な点。

聖書の物語の考察は、聖書学的に行われるのは当然であって、歴史的、文体批判的な方法が一般に用いられている。その目的は、救いの使信の正確な理解に向けられている。筆者はそのような方法論にこだわらず、現代キリスト者として、さらに現代一般の人間としての生き方の反省を、マリア物語の中に求めたいのである。教義の専門家にはまったく恣意な解釈とみなされるに違いないが、できるだけ正統な信仰をもって物語を読み、わが身の生き方を反省するつもりである。当然、そこには現代人の倫理的問題意識が働き、原意から離れることもあるに違いないが、筆者としては、説教師にみられがちな倫理主義的な偏りだけは避けたいと思っている。(p.115-6)

 著者はマリア崇敬をエキュメニカルの時代にも通用するよう、なるべく聖書を根拠に説明しようとする。だが、聖書にはマリアのことはほとんど書かれていない。そこで、聖書の沈黙の内に、原始キリスト教時代のマリアに対する神学的な崇敬を読み取ろうという強引な主張をしてしまう。これではほとんどプロテスタントの賛同を得られることはないだろう。
 プロテスタント批判が多すぎる。
 同じことが何度も述べられており、もう少し整理できないものかと思う。
 おかしな日本語が散見される。人と思想シリーズは悪文見本市なのかも知れない。