キリスト者の自由
最初に2つの命題が掲げられる。
キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
前者は、キリスト者は「内の人」としては、ただ信仰によってのみ義とされるのであり、行ないによってではない、という宗教改革史上に有名な宣言から帰結される。
それならば行ないは全く必要でないのか。善行などは、救われるための条件でないならば何の意味も持たないのか。しかし、自由なキリスト者といえど「外の人」としても生きなければならない。義とされるには信仰だけでよいが、義とされた正しい人は、良い意図を持って良い行為をせざるを得ないだろう。それは、「外の人」としては万人の僕であることを結果するのである。
割と単純な二元論である。
信仰があれば義とされ、なければ義とされない。
義とされた人は、「内の人」としては自由であるが、「外の人」としては僕である。
義とされた人の行為は良いが、義とされない人の行為は悪い。
キリスト教世界の中でカトリックに対抗して書かれたものだから、異教徒には不満もあるだろうが仕方ない。
新約聖書への序言
新約聖書の中でどの書がすぐれているのか。教相判釈(きょうそうはんじゃく)のようなことをルターは行っている。
基準はやはり行ないについて語ることの少なく、言葉の充実したものということになる。したがって福音書中では「ヨハネによる福音書」が断然優れており、パウロの「ローマの信徒への手紙」や「ペトロの手紙一」と合わせて、あらゆる書の中での真実の中核であり精髄であると評される。
一方で「ヤコブの手紙」は「藁の書」であるとけなされる。この書にどんなことが書いてあるのかと言えば、我々にはごく常識的に見える言葉なのだが、ルターにとっては信仰と行ないの順序が逆であるように思えたのだろう。
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行ないと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。(ヤコ2:21-22)
詩篇への序言
ルターは詩篇を好んだ。旧約の他の書が聖者たちの行ないばかりに多弁を弄するのに対して、詩篇はその言葉をしっかり伝えているからである。
新約聖書がしばしば詩篇つきで売られているのは、ルターの影響なのだろうか。
再々読
たぶんこの本を読むのは3度目である。最初は洗礼を受けるはるか以前、次はカトリックの洗礼を受けた後だったように思う。何分、いずれも遠い昔のことなので記憶が定かでないが、いずれにしろほとんど何の印象も与えなかったことだけは確かである。
1度目は聖書を絶対の権威とする議論に関心がなかったためであろう。私が求めていたのは哲学であって宗教ではなかった。2度目はおそらく、クリアカットな二元論に違和感を覚えたのだろう。キリスト者は万人の僕であると言いつつも、内なる人の信仰による自由に過度の価値が与えられているように思われたはずである。
- 作者:マルティン・ルター
- 発売日: 1955/12/20
- メディア: 文庫