本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】天の裏の一角から他の一角へ【ルカ17:24】

 詳しく書こうとすると大変なので、引用と簡単なメモだけ。
 ギリシア語とラテン語新約聖書のために使う方が、苦労してホメロスウェルギリウスの読解に挑むより、ずっと有益ではあろうと思う。私に残された時間を考えれば、多少ともものになりそうなのは、聖書の方である。
 しかし、聖書を読んでいると詩が恋しくなる。思いの外、私はウェルギリウスが好きなようなのだ。
 どうするか決めかねている。ある日は聖書を読み、またある日にはヘクサメトロスを読む。暫くはそうやって過ごすことになるのだろう。


 ルカ福音書の17章24節である。

ὥσπερ γὰρ ἡ ἀστραπὴ ἀστράπτουσα ἐκ τῆς ὑπὸ τὸν οὐρανὸν εἰς τὴν ὑπ’ οὐρανὸν λάμπει, οὕτως ἔσται ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου [ἐν τῇ ἡμέρᾳ αὐτοῦ].


 田川建三の訳と注。

稲妻が天の裏の一角から他の一角へと輝いて光るように、人の子もそのようであるだろう。

このように直訳すると奇妙だが、楽しい表現である。稲妻は突然光るので、見ている側からすれば、この光は今までどこに隠れていたのだろう、思いたくなる。それで、きっと天の裏側にひそんでいた光が突然表側に出て来て我々に見えるようになり、また一瞬後には天の別の位置で裏側に引っ込んでしまった、と考えたのだろう。古代人が自然現象を表現する時は、時々このように楽しい表現が出てくる。(p.402-403)


 原文は「空の下」という前置詞句の前に、女性・単数の冠詞がついており、名詞は省略されている。
 バウアーの英語版で前置詞ὑπό を調べるとこの箇所が例示されていて、χώραを補いなさいと書いてある。これは土地の区画などを意味する。
 類似の表現から推して、ここでもὑπὸ τὸν οὐρανόν = on earthと考えているようである。


 類似表現を挙げておく。翻訳はフランシスコ会訳。
 使徒言行録4章12節。冠詞なし。

καὶ οὐκ ἔστιν ἐν ἄλλῳ οὐδενὶ ἡ σωτηρία, οὐδὲ γὰρ ὄνομά ἐστιν ἕτερον ὑπὸ τὸν οὐρανὸν τὸ δεδομένον ἐν ἀνθρώποις ἐν ᾧ δεῖ σωθῆναι ἡμᾶς.

この方以外の誰によっても救いは得られません。人間に与えられた名のうちで、わたしたちを救うことのできる名は、天の下において、ほかにはないのです」。

 使徒言行録2章5節。複数形の冠詞あり。これは確かにχωρῶνを補うべきものだろう。

Ἦσαν δὲ εἰς Ἰερουσαλὴμ κατοικοῦντες Ἰουδαῖοι, ἄνδρες εὐλαβεῖς ἀπὸ παντὸς ἔθνους τῶν ὑπὸ τὸν οὐρανόν.

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から来た敬虔なユダヤ人たちが住んでいたが、

 コロサイ人への手紙1章23節。冠詞あり。それが直前の名詞「全被造物」を修飾している。

εἴ γε ἐπιμένετε τῇ πίστει τεθεμελιωμένοι καὶ ἑδραῖοι καὶ μὴ μετακινούμενοι ἀπὸ τῆς ἐλπίδος τοῦ εὐαγγελίου οὗ ἠκούσατε, τοῦ κηρυχθέντος ἐν πάσῃ κτίσει τῇ ὑπὸ τὸν οὐρανόν, οὗ ἐγενόμην ἐγὼ Παῦλος διάκονος.

そのために、あなた方は信仰に 土台を置き、腰を据えて、福音の告げる希望から外されることなく、そこに踏みとどまっていなければなりません。この福音はあなた方が 聞いて知っているものであり、天の下にあるすべての造られたものに宣べ伝えられているものです。わたしパウロはこの福音のための奉仕者となったのです。


 欽定訳ではpartを補っている。バウアーに近いのかもしれないし、ちょっと違うのかもしれない。
 イタリック部分は、原文にない言葉を補ったという目印である。

For as the lightning, that lighteneth out of the one part under heaven, shineth unto the other part under heaven; so shall also the Son of man be in his day.


 今読んでいるテキストは、希羅対照である。ラテン語はネオ・ウルガタで、古代の翻訳に句読点等を付けて読みやすくしてくれている。時々、訳も新しくなっている。

nam sicut fulgur coruscans de sub caelo in ea, quae sub caelo sunt, fulget, ita erit Filius hominis in die sua.

 直訳すれば「空の下でひらめいた稲妻が、空の下にあるものへと光り輝くように」という感じだろうか。
 正直に言えば、これは私にはよく分からないのだけど、ルターも同じように訳している。しかも丁寧に、「空の上でひらめいた稲妻が、空の下にある全てのものに光り輝くように」となっていている。

Denn wie der Blitz oben vom Himel blitzet / vnd leuchtet vber alles das vnter dem Himel ist. Also wird des menschen Son an seinem tage sein.

 1912年版は綴りを現代的にしただけで、ほとんどルターの訳そのままである。

Denn wie der Blitz oben vom Himmel blitzt und leuchtet über alles, was unter dem Himmel ist, also wird des Menschen Sohn an seinem Tage sein.


 ルター聖書も1984年版になると、Endeを補って訳すようになる。これは「端」という意味であろう。ただし、「下」に相当する前置詞はなくなる。

Denn wie der Blitz aufblitzt und leuchtet von einem Ende des Himmels bis zum andern, so wird der Menschensohn an seinem Tage sein.

 「稲妻が空の端から端まで輝き光るように」という感じだろうか。
 新共同訳やフランシスコ会訳などは、これとほぼ同じ訳になっている。


 いずれにしろ、「空の下」というのが空の一部なのか、その下の地上のことなのかはさておき、みんな下方を指していると解釈しているわけである。
 「空の裏」と言っているのは田川だけのようだ。専門的な注釈書にはその辺の議論があるのかもしれない。だが、代表的な翻訳がそのような解釈をしていない以上、もう少し詳しく解説をして欲しいところである。